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2010年03月28日

Zeitun 2009.12.9-10,16-24

 エジプトのカイロ市郊外のゼイトウン(Zeitun)では、1968年から1971年にかけてコプト正教会の丸屋根の上で聖母マリアの光り輝く霊体のご出現がありました。この現象は、ほとんど毎夜、10万人以上の人々に目撃され、多くの病気の人が瞬時に癒されるという奇跡もありました。この出来事はコプト正教会、コプト派カトリック教会、プロテスタント教会、そしてイスラム教のエジプト政府からも公式に聖母の出現であったと認められています。

 昨年、2009年12月9~10日、16~24日にかけて、再びご出現があったことは、日本ではまだあまり知られていません。今度は聖母のみならず、他に数体の、同じく光り輝く霊体がYouTubeの映像に映し出されています。これらの出来事を読者の皆様にご紹介できることを、編者として本当に幸いに思います。

 以下の映像を提供してくださった方々に、カトリックの一信者として心からの感謝を申し上げます。

 YouTube(1)2009年12月10日、聖母と三体の光り輝く聖なる霊体
 http://www.youtube.com/watch?v=mpgZdFM9mH8

 編者解説:少し大きめの霊体は聖母と考えられます。ほかの三体の霊体は、前回のご出現(1968年~1971年)から40年の間に煉獄での修行を終えて、天国(宇宙の中心領域)へ帰れる段階に達した聖なる霊体と考えられます。

 映像のなかほどで、光り輝く四体の霊体がデモンストレーションのように、見物している群衆の頭の上を飛行してまた丸屋根の上に戻ってくる情景が映されています。一糸乱れぬその飛行の一致から四体がほとんど一心同体の関係にあることが推測できます。

 これらの存在を幽霊や悪魔の類と混同する人は、あまりにも勉強不足、認識不足というべきでしょう。幽霊とは人々の肉体の死後の霊で、この世(物質的三次元世界)に執着が残り、生前に罪でエネルギーを消耗するなど、いろいろな理由でこのように光り輝く聖なる段階の霊体とはなり得なかった霊です。悪魔とは堕落した天使であり、ねたみから人々を罪へと引きずり落とそうとする霊体なので、病気の奇跡的治癒などで人々を信仰へ導くことはありえません。

 「神は霊である」(ヨハネ福音書4:24、新共同訳)、つまり宇宙の第一原因である創造のエネルギーは私たちが霊と呼んでいる実在であり、その本質は私たちが愛と呼んでいる働きです。

 YouTube(2)2009年12月17日、おそらく帰天前の聖なる霊体の挨拶
 http://www.youtube.com/watch?v=hQEgnwTgdJK

 編者解説:子供のような雰囲気のこの光り輝く霊体は、おそらく聖なる段階になりたてほやほやの霊体でしょう。私は最初、幼子イエズスさまかと思ったのですが、それならいつも聖母と共におられるはずだと思いなおしました。コプト正教会の前に集まっている群衆にお別れの挨拶をしているように感じられます。

 この霊体をよく眺めると頭にあたる上部の周囲には黄金のオーラが、またそれより下部の周囲には紫に近い青いオーラが観察できます。

 映像の終りまで眺めていると、お別れの挨拶が終わって、一瞬にして教会の丸屋根の向こうの夜空へ点になって飛び去っていくのが見られます。どの程度のスピードなのか、どなたか計算してみられると興味深いでしょう。その速度によって、地球上の他の地域へ行くのか、あるいは帰天(天国へ帰る、つまり宇宙の中心領域へ帰ること)するのか判断できると思います。私はおそらく帰天ではないかと思います。

 UFOとご出現との関連を説く人がいます。このコプト正教会でのご出現でも、前後にアダムスキー型の円盤ではないかと思われる映像がYouTubeに提供されています。私の考えでは、聖なる霊体の誕生は宇宙的な出来事なので、他の星から偵察に来るのも当然と思います。できればスカウトしたいと思っているのかもしれません。

 太陽系外のほかの恒星系までは、私の乏しい知識によれば一番近くのアルファ・ケンタウリでも4・3光年かかりますので、偵察に来るにはあまりにも遠く、やはり太陽系内の惑星、物質的三次元とは別の次元からの来訪者と考えられます。

 いずれにしても、それらは宇宙船を使わねば宇宙空間を移動できないレベルの文明であって、一瞬にして宇宙の中心領域へ達する(神に近い)ことが可能と考えられる聖なる霊体(現代風にいえば超生命体、あるいは宇宙生命体)とは、霊的な発達段階がかなり異なると考えられます。

 UFOの映像は、別の次元からの霊体なので眺めるだけでも霊的に何らかの影響を受ける恐れがありますので、私はできるだけ見ないようにしています。

 どのような影響を受けるのか、また映像をどの程度ながめればそういう影響を受ける恐れが生じるのか、まったく未知の領域なので何とも言えませんが、仮説として、たとえば、日常生活においてUFOからの干渉を頻繁に受けるようになるとか、霊魂がUFOに連れ去られたり、生命エネルギーを吸い取られて霊的に殺されるという危険も、可能性として考えられます。

 私は、UFOよりも、もっと根源的な神とのつながりによって霊的に成長することを望む者ですので、UFOだけでなく不必要なあらゆる干渉から自分の霊魂を守るために、絶えずロザリオの祈りを毎日欠かさずに祈りつづけています。どうか警戒なさってください。


 YouTube(3)2009年12月22日、聖堂内で名残りを惜しむ帰天前の聖なる霊体
 http://www.youtube.com/watch?v=LJWaidsC2cI

 編者解説:これも聖なる段階に達した霊体でしょう。コプト正教会の聖堂の内部で名残りを惜しんでいるように感じられます。このことから、おそらくこの教会で煉獄の修行を終えて帰天してゆく前の修行者の霊魂だろうと推測できます。

 以上、編者解説はあくまでも編者による個人的な仮説にすぎないことをお断りしておきます。

 (編者:このブログは営利目的ではありません。主と聖母への奉仕活動です。どなたか英語に訳して広めていただければ幸いです。もちろん著作権は放棄しております)。  

Posted by tayori at 07:52旅行資料

2010年03月28日

Our Lady of Akita No.1

ある出来事について検討するとき、それに関わった人物や時代など、いろいろな角度から眺めることが可能ですが、ここでは出現という中心課題のみに焦点をしぼって出来るだけ簡単にまとめてみたいと思います(文中の太字は編者)。

その1 <その概観> <その内容と要請> <その客観的現象>
その2 <天使の働き> <その祈り>

《参考文献》

カトリックグラフ特別取材班著『極みなく美しき声の告げ』山内継祐編(コルベ出版社1980年5月増補版)。

安田貞治著『現代の奇跡 秋田の聖母マリア ―聖母像の涙とメッセージ―』(聖体奉仕会1987年8月第3刷)。

『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示――ルチア修女の手記』ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥共訳編(ドン・ボスコ社1992年5月3版)。

志村辰弥編著『聖母像から血と涙』(カトリック東京司祭の家1993年11月第7版2刷)。

安田貞治著『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』(エンデルレ書店2003年第1版2刷)。

『聖体奉仕会60年のあゆみと涙のマリア像 秋田の小さな修道院の物語』(聖体奉仕会修道院監修、秋田文化出版編集発行2006年3月)。


<その概観>

1.出現の場所

日本の秋田市添川湯沢台1にある在俗修道会内。

2.出現を受けた人

全聾の在俗修道会修練女1人。
笹川カツ子(1931年5月28日生)。
聖母の姿(木彫の像に光の姿が重複)を見て、その声を聞き、(以心伝心で)対話した。

3.出現の年月日、場所名、出現者

年月日        場所名            出現者

1973年 6月12日  聖体奉仕会聖堂        聖櫃から光
1973年 6月13日   同上            聖櫃から光
1973年 6月14日   同上            聖櫃から光、聖体ランプの炎上
1973年 6月24日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
1973年 6月28日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
1973年 6月29日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
女性の姿
1973年 7月 5日    同上            女性の姿
1973年 7月 6日    同上(修室から聖堂へ)   女性の姿(守護の天使)
                          聖母像が光に包まれ、声がひびく
1973年 7月27日   同上             守護の天使
1973年 8月 3日    同上            守護の天使、聖母像から声
1973年 9月29日   同上             聖母像が白く輝き、両手から光
                          守護の天使
1973年10月 2日   同上             聖変化の聖体から光
                          ミサの参加者の守護の天使8位
1973年10月 7日   同上             守護の天使
1973年10月13日   同上            聖櫃から光、
光り輝く聖母像から声
守護の天使
1975年 1月 4日    同上            守護の天使
1976年 5月 1日    同上             守護の天使
1981年 9月28日   同上             開かれた聖書、天使の声
上記以外に、守護の天使の私的共同体的な出現を頻繁に受ける。


<その内容と要請>

秋田の聖母出現は、日本の教会史上初めての本格的な出現であり、カトリック教会から公認されています。そのメッセージの内容も、人類全体の未来に関わる重大なものなので、聖母と守護の天使からの公的なメッセージについては省略せずに記すことにしました。

1973年6月29日(金)イエズスの聖心の祝日 午前9時頃 女性の姿、無数の天使
右に現われた女性の姿が、聖体礼拝のロザリオの祈りをいっしょに先唱する。無数の天使が、光り輝く聖体に向かって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美する。右に現われた女性が「すべての民の母」の祈りを唱える。

1973年7月6日(初金)午前3時頃 女性の姿(守護の天使)、聖母像から光と声
「(6月28日夕方から現われた笹川の左掌の傷について)恐れおののくことはない。あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷(編者:木彫の聖母像の右掌の部分から出血現象)は深く、痛んでおります。さあ行きましょう」。

その女性の顔を見て、思わず「お姉さん!」と呼びかけた笹川に、ほほえんで頭を軽く振り「わたしは、あなたに付いていて、あなたを守る者(守護の天使)ですよ」と言う。
守護の天使に導かれて聖堂へ行く。聖母像が目もくらむほどの光につつまれているのに気づいて、おもわずその場にひれ伏すると、極みなく美しい声がひびいてくる。

〔聖母マリア様からの最初のお告げ〕
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」。

聖母像からの声と、守護の天使の声にあわせて祈ると、伊藤庄治郎司教の起草された「聖体奉仕会の祈り」の「御聖体のうちにまします」の部分に一語を加えて「御聖体のうちにまことにまします」と唱えるようにと教えられる。
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」。

1973年7月27日(金)午後2時半 守護の天使
〔出血現象についての天使の説明〕
「(笹川の左掌の傷の激痛について)その苦しみも、今日で終わります。マリア様が御血を流されるのも今日で終わりますよ。マリア様の御血の思いを大切に、心に刻んでください。マリア様が御血を流されたのには、大事な意義があります。あなた方の改心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。聖心(みこころ)の信心とともに(主の)聖血(おんち)の信心も大切に。すべての人たちの償いのために祈ってください」。

「御血が流されることは今日で終わることを、あなたの長上に話しなさい。あなたの痛みも今日で終わりますよ。今日のことを長上に話しなさい。長上はすべてのことをすぐ解ってくれます。そしてあなたは長上の御指示に従いなさい」。

1973年7月28日 伊藤庄治郎司教への報告のあと
伊藤庄治郎司教からの出現者への三つの質問
1.私たちの会を、神様がお望みであるかどうか。
2.また、このままのかたちでよいのかどうか。
3.在俗であっても観想部が必要かどうか。

1973年8月3日(初金)午後2時頃 守護の天使、聖母像から声
守護の天使「何か尋ねたいことがあるでしょう。さあ、遠慮なく申しなさい」。

〔聖母マリア様からの第2のお告げ〕
聖母像から声「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。

世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。

祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主(みあるじ)をお慰めするために祈ってください」。

「あなたが心の中で思っていることは、まことか? まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」。

1973年9月29日(土)大天使聖ミカエルの祝日 昼食後 聖母像全体が白く輝く、両手からまぶしい光
笹川といっしょにロザリオを祈っていたシスターが、聖母像の右掌の傷がなくなっているのに気づく。

      同日夕方 守護の天使
晩の祈りの終わりごろ、聖母像がテラテラと光り始める。最前列のシスターの一人が、聖母像から汗のようなものが流れ始めているのに気づく。

〔発汗現象についての天使の説明〕
守護の天使「マリア様が、おん血を流されたときよりもお悲しみになっておられますよ。お汗をふいておあげなさい」。
汗をふいた脱脂綿から天国的な芳香。

1973年10月2日守護の天使の祝日 午前6時半のミサ 聖変化の聖体から光
輝く聖体に向かって礼拝している天使8位。祭壇を半円形にかこんでひざまずいている。
聖体拝領のときに、シスターたちの右に付き添うそれぞれの守護の天使の姿。

1973年10月7日ロザリオの祝日 守護の天使
「(9月29日から聖堂にたちこめた芳香について)この香りはいつまでつづくかしら。ロザリオの月(10月)いっぱいつづいてほしい……」という思いがうかぶ。

〔芳香現象についての天使の説明〕
守護の天使「十五日までですよ。それ以上は、この世にあって、この香りをかぐことはないでしょう。かぐわしい香りのように、あなたも徳を積んでください。一心に努力すれば、マリア様の御保護によって成し遂げられるでしょう」。

1973年10月13日ファティマ太陽の奇跡の日 聖体礼拝 聖櫃から光、聖母像から芳香
       同日朝食後   光り輝く聖母像から声

〔聖母マリア様からの第3のお告げ〕
聖母像から声「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」。

「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。

その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。

悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。

勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」。

「あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。
ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」。

この第3のお告げの部分については、安田神父「巷間に流れている“ファチマの第三の秘密”のいわば“焼き直し”ではなかろうか、という疑念を(伊藤司教は)もたれた」。司教はこの点に関し、何度も笹川に質問を繰り返して確められたという。

編者は、そこで問題となっている巷間に流布されたファチマ第3の秘密を、比較検討のために以下に掲載することにした。(編者による太字は、両者の間でテーマの異なる個所)。

〔当時、巷間に流布されていたファチマ第3の秘密〕
「20世紀の後半において、次の大きな試練が人類の上に下るであろう。
民は神の恩恵を足蔑(あしげ)にし、各地において秩序が乱れる。(編者:神の恩恵とはミサにおける御聖体のことではないのでしょうか)。
国家の最高部をサタン(悪魔)が支配し、世相はサタンによって導かれる。
教会の上部にもサタンが入り込む。殊にサタンは学者の頭を混乱させる。
全人類の大半を数分のうちに滅ぼすほどの威力を持つ武器が造り出される。
カルジナルはカルジナルに、司教は司教に戦いをいどむ。
神の罰は洪水(ノエの洪水)の時よりも悲惨である。偉大な者も小さい者も同じく滅びる。
20世紀後半において大いなる戦争が起こる。腐ったものは堕ちる。堕ちたものはもうこれを支える力がない。(編者:これはひょっとして、霊的な戦いのことではないのでしょうか)。
火と煙が降り、大洋の水は蒸気のように沸き上がる。
その艱難によって地上の多くのものが破壊され、無数の人が滅びる。生き残ったものは死んだものを羨むほどの艱難に襲われる。
もし最後の時が近づいて、人類が自ら改心しなければ、世の苦しみはいっそう深刻化する。
善い者も悪い者も、牧者はその信徒と共に世の支配者はその民と共に滅んで行く。
到る処で死が勝利の歌を歌う。荒れ狂った者が凱歌をあげる。彼らは唯一の支配者サタンの配下である。
これらがすべて終わった後、世は神に立ち帰り、聖母マリアは御子イエズスのあとに従った者の心を呼び起こす。
キリストは単に信じるのみでなく、キリストのために公の場所で、その勝利を勇敢に宣言する人を求めている。よき信徒、よき司祭は彼らの兄弟から軽蔑され、攻撃されるだろう。
隣人に向かって真理の言葉を告げる者のみが真の愛を持っている」。

上記のものは、1963年10月15日ドイツのニュース・エウロパ紙発表のもの。
ルイス・エメリック記者によると、この秘密書類は1960年教皇ヨハネ23世によって開封されたが、公表は時局にふさわしくないということで封じられました。教皇パウロ6世になって、各国に核兵器が増強され戦争の危機が高まってきたので、教皇はその世相に心を痛め、指導者の反省を促すために、原文を外交的にやわらげて、各国の首脳および司教団に送ったと言うのです。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、1980年ドイツを訪問して、これについて質問を受けたとき、その事実を認めた解答をしておられます。
(1963年エウロパ紙発表のファチマ第3の秘密と解説は、前記参考文献『ファチマの聖母の啓示』から抜粋引用)。
(編者:1963年エウロパ紙発表のものと、2000年教皇庁発表のものとの内容に、あまりにも差異のあることが、ファティマ第3の秘密の、まだ公表されずに残されている部分があるのではないか、という疑念を読者に抱かせる原因の1つになっています)。

1975年1月4日(初土)午前9時頃 聖母像からの落涙現象の始まり、同日中に3回
      同日午後6時半頃 準会員の奉献式が終わって念祷のとき

〔落涙現象についての天使の説明1〕
守護の天使「聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。
今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている“聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!”との願いをこめての祈りは喜ばれています。
聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。
このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい」。

1976年5月1日勤労者聖ヨゼフの祝日 午後8時過ぎからのミサのあと 守護の天使

〔落涙現象についての天使の説明2〕
「“世の多くの人びとは聖主を悲しませております。私は聖主を慰める者を望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人びとの忘恩、侮辱の償いのために改心して祈ってください。ロザリオの祈りはあなた方の武器です。ロザリオの祈りを大切に、教皇、司教、司祭のためにもっとたくさん祈ってください”

この(マリア様の)みことばを忘れてはなりません。聖母はいつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまとおん父に捧げられる霊魂を望んで涙を流しておられるのです。外の妨げにうち勝つためにも、内なる一致をもって、みなが心を一つにし、信者はもっと信者の生活をよくして、改心して祈ってください。
聖主と聖母の御光栄のために、今日の日を大切に。みなが勇気をもって一人でも多くの人びとにこの信心をひろめてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導く方に告げなさい」。

1981年9月28日ロザリオの祝日へのノヴェナの初日 聖体礼拝 開かれた聖書、天使の声
神秘的な光を帯びた大きな美しい聖書が目の前に開かれ、ある個所を読むように指示される。
そこに“3章15節”という数字をみとめたときに、天使の声が説明。

〔落涙現象についての天使の説明3〕
「聖母像の涙はこの個所に関係があります」。
「お涙の流されたこの101回という数字には、深い意味があります。一人の女によって罪がこの世に入って来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に入って来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです。創世記の三章十五節を読みなさい。このことをあなたを導いておられる神父様に伝えなさい」。


<その客観的現象>

ここで言う客観的現象とは、出現を直接的に受けたシスター笹川以外の第三者(他のシスターや巡礼者たち、訪問客等)によって認められた、通常ではない現象のことを言います。

1973年6月29日午前9時聖体礼拝 第三者はシスター小竹サキ(修練長)1人
シスター小竹サキ「いつも早口の彼女が、非常にゆっくりロザリオを唱えたのがふしぎで、あとでその理由を聞いてみたら、天使がそのように唱えるから、と言いました」。

1973年6月30日 伊藤司教から8月誓願の許可が出たあと シスター小竹
笹川が左手をかばう様子をシスター小竹が見とがめる。
笹川の左掌の中央にくっきりと十字架の形のみみず脹れ。
小竹はそれを見て思わず「なんと神秘な色!」とつぶやく。
「なぜ司教様に、お帰り前にお見せしなかったの」ととがめると、「こわくて…」と笹川。

1973年7月5日夕食後の修室 シスター小竹、池田智恵(会長代理)
シスター小竹「あの晩は町のある婦人から夕食に招かれ、支部に泊るつもりで出たのですが、どうも笹川さんのことが気になって、山に帰ることにしたのです。すぐ部屋に行ってみると、彼女はベッドに腰をかけて編み物をしていました。わたしの問いに、手をやっと開いて見せて『あまり痛いので編み物をしています』と涙をいっぱいためています。『こうなったのは、わたしの罪が深いからかしら』と心を痛めている様子でした。わたしは、それが聖主(みあるじ)からのおくりものであることを直感しましたが、『痛いでしょうけど、聖主のお苦しみを思ってがまんしてくださいね。わたしたちの分まであなた一人に負わせてごめんなさいね』といたわりなぐさめて、目上の池田さんを呼びに行きました。

それから二人でガーゼと包帯で傷の手当てをして、夜中にあまり苦しいようだったら、わたしたちを起こすように、といって部屋を出たのでした」。

1973年7月6日 木彫の聖母像の右掌に十字形の傷と出血 小竹、柏木、シスター全員
小竹「町の修道院の御ミサに与ってから帰ってくると、玄関で笹川さんが次のように申しました。『マリア様の御像に何か変わったことがないか、見て頂けないでしょうか。今朝、マリア像について言われたことがあり、心配なのです』

わたしはそれを聞いてすぐ聖堂へ行き、聖母の木彫の像の前に立ってみると、右の手のひらに黒々とした十字の印がついていました。それは細いマジック・ペンで描いたようにも見え、タテ1.5センチ、ヨコ1.3センチくらいのものでありました。わたしはとっさに自分の罪深いことを考え、ひれ伏して涙を流し、声を出してゆるしを請いました。(略)

池田さんが町から帰ってこられましたので、ことの成り行きを知らせ、御像の前に案内しました。『これ(十字形の傷)は前からあったのではないか』と聞かれましたのでわたしは『マリア像を二ヵ月かかってデッサンしていましたので、御像のすみずみまでよく知っておりますが、以前にはありませんでした』と証言しました。(略)」。

シスター柏木「いったん食堂に戻り、30分か1時間くらいたってから再び聖堂に行き、マリア像の前に跪いてみました。今度は御手の傷がはっきり変化していました。十字形の大きさは前と同じでしたが、単にボールペンのにじみのような感じはなく、肉体に彫られた傷のそれでした。十字形の周囲は人間の肌そっくりで1ミリくらいの指紋のような、皮膚の目さえ浮き彫りになっています。この時、手が生きている、と思いました。(略)

この日、御手は何回も変化しました。小竹さんから『御血が流れました』と知らされ、急いで聖母像を見に行きましたが、血はあたかもその傷口から流れ出たように下方に流れており、まわりにまでにじんでいました。やはり木に血がにじめば、このようなものかと思われるほどでありました」。

シスター石川「以前、その手の部分に十字架の印がなかったことは確かです。私は五年くらいずっと香部屋の係を担当していましたので、マリア像を布でふいた経験もあって、間違いはないのです。(略)」。

シスター池田智恵(会長代理)は、いちばんの年長でもあり、世間での生活も長く、良識ゆたかな人間である。報告を受けて、聖母像の掌を検分したとき、さほど動揺を示さなかった。が、突然両手をふり上げ、ガバとひれ伏しつつ「わが主よ、わが神よ!」と叫んで、かたわらの姉妹たちをおどろかせた。

シスター池田智恵「この傷は、だれかがいたずらに、マジックペンででも描いたのだろう、と思った瞬間、中央の小さい穴から血が噴き出てきた。思わず、あのトマの叫びが口から出た。御復活を疑って主に御傷を示されたあの弟子のように、畏怖の念にうたれて」。
他にも、同様の経験を告白したシスターがいた。

1973年7月12日夕方の聖務日課 シスター小竹ほか2人
夕方の聖務日課に、シスター笹川が聖堂に入ると、聖母像の前で他の二人と祈っていたシスター小竹が、あわただしくさし招いた。

小竹「マリア様の御手から、また血がにじみ出ているのよ。まだ濡れている手のひらをごらんなさい」と示す。
いかにも、今ふき出たばかりらしい鮮血が、十字形の中心から小指のあたりまで流れて止まっている。それを目にしたショックは、前の時にまさるとも劣らぬほどだった。
その“晩の祈り”の最中から、シスター笹川の手の傷も、また痛みだしてきた。

1973年7月13日金曜の夕の聖務 小竹ほかシスター各人
帰院したシスター小竹によって扉が開けられ、たちまち聖母像の掌にまた血の流れが発見された。各人が近くから眺め入ったが、つい今しがた出たようになまなましく、やはり小指の下あたりまで赤い筋が流れてたまっていた。
ふしぎなことに、笹川の手の傷も、普通の日の間は引きつづき痛むわけではなく、木曜の夕方から金曜にかけて、烈しくなるのを通例とした。

1973年7月26日午後2~3時過ぎ 伊藤司教、シスター石川、池田、小竹
シスター石川「一番印象に残っているのは、7月26日(木曜日)、午後2時過ぎ、祭壇の花を飾りミサの準備をしているときに気がついたのですが、今までになく大きな血のかたまりみたいなもの、黒みがかった赤色が像の手に見られたことです。すぐに台所にいた柏木に知らせ、確かめてもらい、3時頃には司教様をお呼びして見ていただきました」。

笹川「ふり向いた姉妹小竹の眼に、涙があふれている。『またマリア様の御手から血が流れているの。きょうのは、前よりたくさん出てきて、濃くて、ほんとに痛々しいの。あなた、わたしのかわりに祈っていてね』と言いおいて、席をゆずるように出て行かれた。

のぞいて見るまでもなく、おん手のくぼみに、鮮血が、こんどは流れの筋でなく、小さな溜りをつくっているのが、目を打つ。司教のそばに進むどころか、思わずあとずさりして、自分のいつもの座にひれ伏してしまった。こんなにまで、おん血を流されるとは!……」。

1973年7月27日朝 伊藤司教、シスター石川
石川「7月27日(金曜日)の朝、玄関で司教様に、こんなふうに血が出るんですよ、と言って手のひらをお見せしている笹川さんを見ました。偶然の通りがかりだったので、ちらりと脱脂綿ににじんでいる血を見ましたが、それは鮮血でした。7月中、特に木曜日の晩から金曜日にかけて傷が痛み、それもキリで刺されるような痛みで、血が流れていたようです。そのため、食卓の後片づけを彼女は免除されていました」。

1973年9月29日昼食後聖堂 第三者はシスター1人
ロザリオの祈りの最後の第五玄義を唱えかけて、聖母像全体が白く輝いているのに気づく。となりのシスターの袖を引いて注意をうながし、祈りながら二人して眼をこらす。とくに御衣が白く輝き、両手からまぶしい光がさし出ている。
ロザリオの祈りを終えて聖母像に近づき、まず礼拝するシスター笹川に、連れのシスターが「あ、おん手の傷がなくなっている」と指し示した。

      同日晩の祈りのとき シスター数人
聖母像から汗のようなものが流れ始める。笹川に守護の天使から、聖母像の汗をふくように指示があり、脱脂綿を持ってきてシスター5人ほどでおそるおそる御像をぬぐいはじめる。
全身をしとどにぬらす汗という感じで、ことにひたいと首のまわりは、ふいてもふいてもとめどなく、あぶら汗のようなものが滲み出てくる。愕きとともに、心は名状しがたい痛みをおぼえる。

シスター小竹は涙をこぼしながら「マリア様、こんなにお悲しみとお苦しみを与えて申しわけありません。わたしたちの罪とあやまちをおゆるしください。わたしたちを守り助けてください」と言いつつ手を動かす。脱脂綿は、しぼれるほどに濡れていた。

      同日夕食後 シスター数人
聖母像がまた汗びっしょりになっている。あわてて皆で拭く。
シスター大和田が「わたしの綿はちっともぬれない。わたしがふくと汗は出ないようだ……」と悲しげにつぶやくと、とたんに、まるでその不安げな言葉への応答のように、彼女の手の綿は、水に漬けた海綿のように、したたるばかりに濡れたので、びっくりし、つよい感銘を受けたようだった。

そのうちひとりが「この綿からよい匂いがする」と言いだした。嗅ぐと、バラともスミレとも百合ともつかず、それらを合わせたような芳香が感じられ、一同恍惚とした。

シスター大和田「この世の最高の香水も、こんな匂いは出せない!」。まったく天国での香りとはこういうものだろうか、と言い合った。

1973年9月30日聖堂 シスター各人
昨日から引きつづき、聖母像から芳香が発している。
シスターたちは、各自の席で身をつつむごとき香気に魅了される。

その後も、芳香は10月15日まで続く。
特に、小さき花の聖テレジアを記念する3日と、最終日の大聖テレジアを記念する15日には強烈に感じられた。

1973年10月16日早朝の聖堂 シスター各人
昨日までとはうって変わったような、ものすごい悪臭。それも普通の臭気ではなく、これも何か神秘な、この世ばなれした無類の悪臭だった。

笹川「お聖堂(みどう)の戸を開けると同時に襲ってきた臭いは、思わず鼻を蔽ったほどひどいものでした。香部屋が、その源のように、とくべつ臭うので、いそいで調べましたが、原因らしいものは何も見あたりません。それに動物の死臭ともちがう、今まで嗅いだことのない臭さですが、一同がすぐに連想したのは、タクアンの腐った臭いでした。でも漬物小屋は反対の方角にあります。(略)

ロザリオの祈りが終わったとき小竹さんが聖母の御像の前のロウソクを消しに立ち上がりました。とたんに『あっ』という身ぶりで、隣りの池田さんの膝の前を指さしました。こちらは、何か白い米粒のような物を示されて、つまみかけ、その手ざわりに『ワッ、蛆(うじ)!』と言われたようでした。同時にわたしたちも、それぞれ隣りの人の前に、這っている一匹の蛆虫を見つけて、『そら、そこにも』『あなたの前にも』と教え合って、身ぶるいしました。
いったいどこから出て来たものか、手分けして調べましたが、これもふしぎな臭気と同様、原因をつきとめることはできませんでした」。

いちばん臭気の甚だしいのは香部屋で、ここは皆の告解場に使われている。誰からとなく、私たちの罪の臭いだ、と言いだし、頭を垂れてうなずき合った。

タクアンの腐ったような汚臭は、小竹「まさに私たち日本人の罪の臭いだ」と。
蛆虫が出てきたのはこの日一日だけだったが、おぞましい悪臭はこのあと三日間続く。

1974年5月30日 安田貞治神父、シスター各人
安田貞治神父「晩の祈りのため聖堂に入って私も着座したとき、突然姉妹のひとりがふり返って『マリア様のお顔が変わっています』と上ずった声で告げた。はっとして仰ぐと、たしかに御像の顔の部分だけが、全体からきわ立って赤黒く、彩色されたかのように変色している。(略)

この時の変化は(両手の部分をのぞき)多少色がうすれたものの、今も残っている。先年、これを手がけた彫刻家の若狭氏が見に来られた際、木彫のある部分一帯が変色することはあっても、このように特定の個所だけがくっきり彩られたように色を変えることは自然では考えられない、と驚いておられた。また顔の表情など、製作した時とは異なってきている、と不審を洩らされたのであった。

このお顔の表情が、その時により、見る人により、いろいろと変わることは、かねて人々のうわさする通りである。撮られた写真にも、同じ御像か、と思うほどの表情の違いがみとめられるのも、ふしぎの一つである」。

1975年1月4日(初土)午前9時、午後1時、6時半 最初の落涙現象三回 目撃者は伊藤司教、安田神父、シスター、黙想会参加者で、20名
年の初めの黙想会中で、地方からも会員が参加していた。全員が目撃。

笹川「朝食後のお礼拝のあとでした。聖堂のお掃除をしていた海津さんがあわただしく出て来て、『笹川さん、ちょっと』と、廊下にいた私を呼びました。何事かとお聖堂(みどう)について入ると、ものも言わずに聖母像を指さされました。『何?』と海津さんを見れば、顔は土気色で、さしている指先はワナワナとふるえています。私は御像にもう一歩近づいて、お顔を仰いでみて驚きました。両のおん目に水がいっぱいたまっています。あら、水が…と思うとたん、スーッと鼻筋にそって流れ落ちます。眼から水が流れる……それでは涙ではないか、とはじめて気がついて、海津さんに『まあ、マリア様のお涙かしらね』と問いかけましたが、彼女は棒立ちにすくんだまま、唇をふるわせているばかりです。

私も急に腰くだけになりかけ、その場にひれ伏したくなりましたが、これはともかく大変なことだ、まず神父様にお知らせしなくては、と気をとり直して、司祭館へお電話したのでした」。

安田神父「木彫の聖母像の両眼が、きらきらと光り、涙がたまり、あふれ出し、流れ落ちる光景は、まさに泣いているお姿としか見えなかった。あとでだれもが口にしたように『生きている人間が泣いている』感じであった。涙が涙腺のある眼がしらのあたりから湧き出、鼻すじや頬をつたわってしたたり落ちるのも、立ったまま滂沱たる涙を流している人間の場合とまったく同様である。涙のしずくはあごの下に玉のように留まったり、衣の襟にたまったり、さらに帯を越え衣のひだにそって流れ落ちて、足台をぬらしていた」。

伊藤庄治郎司教(1月6日、秋田地区の司祭たちの新年の会合で)「自分は以前に聖母像の手の傷も、そこから流れ出た血も見ているが、今回、眼から流れ出た涙を綿をもって拭ったとき、血の場合とははるかにちがって、その不思議さを感じた。これこそ奇跡ではなかろうか、と思った」。

この日に始まった聖母像の落涙現象は、時をおいてあるいは日を継いでくり返され、1981年の9月15日(聖母の悲しみの記念日)まで延々と101回も続き、目撃者は日本の各地、韓国からの来訪者延べ1842人(次に記す一覧表の数字を足したもの)に及ぶ。

この現象の詳細な記録(日時、回数、目撃者とその数等)が、前記参考文献『日本の奇跡 聖母マリア像の涙』の巻末付録に一覧表にして掲載されている。

安田神父「涙の流れる様相は常に異なっていた。量にしても、ある時はとめどなく流れくだり、ある時は二、三滴したたり落ちる、という具合であった。状況としては、私たち修院在住の者だけの面前で起こることは少なく、外部からの訪問者のある時が多かった。つまり、内輪の者ばかりでなく、客観的に観察をなしうる証人の存在する時に、おもに起こったのである。その時間も限定されず、昼夜を問わず、だれの予測も及ばぬかたちで始まるのであった。必ず発見者が出るわけであるが、それは大人でも子供でも、訪問者でも姉妹でも、だれでもよかったようである。落涙が起こらなかった例外的な時間があったとすれば、それはミサ聖祭の間である。御ミサは姉妹たちの生活のなかで、日々欠くことのできぬ、最も神聖な典礼行為である。そのミサの開始前、あるいは終了後には、二、三度“お涙の現象”があったように記憶する」。

7年間に及ぶ101回の落涙現象については、新聞雑誌出版物やテレビ等の報道によって日本全国に広く知られている。実は本稿の編者も、まだ教会へ行ったこともない若い頃にテレビで聖母像の涙を目にして驚いた一人である。その時に、落涙現象だけでなく聖母像の前で熱心に祈っている人々の姿に「こういう世界があったのかぁ!」と、何かうらやましい手のとどかない世界を見せられたような気持ちになったのを覚えている。

前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』には、落涙現象を実際に目の当たりに見た人々の目撃証言(1976年5月1~2日)が掲載されている。その中から、描写が客観的なものを三つあげておきたい。

鈴木功氏(首都高速道路公団職員48歳)「私など技術畑出身なので、とかくアタマでものを考えてしまいます。超自然より自然法則を尊ぶんですね。だから一回目の目撃時には、雨のせいではないか、湿気はどうか、といった疑いが頭を横切りました。完全にショックだったのは二度目です。そこにはもう、自然作用の入り込む余地がありませんでしたから」。

松井栄次氏(郵政省電波管理局勤務43歳)「涙が出たという知らせを初めて受けたとき、私もやはり雨露の影響ではないかと考えて、像を目と鼻の先に見据え、そうでないと解ったあと、今度は、誰かがスポイトで演出したのではないかと思いました。ところが二度目の涙は、像の目からジワッとにじんであふれ、私たちの目の前で次から次へと流れたのです。私たちの理解を超越したこの事実に、やはり感動せざるをえませんでした」。

川崎弘氏(明治ゴム化成勤務39歳)「二度目のとき、私は像から30センチメートルの近さで、右目から米粒の涙がキラキラ光って湧き落ちるのを見ました。人為的手法では芸術をもってしても表現出来ない美しさでした。他に人がいなければ像の足元に落ちた涙を自分のロザリオにつけてみたい――そんな思いに駆られました」。

落涙現象によって流れ出た水分は、二度にわたり秋田大学法医学研究室にて成分の精密な検査がなされた。

一度目の検査は、最初の落涙現象(1975年1月4日)から日を経ずして行なわれ、保存されていた聖母像の右掌の傷から流れた“血”を拭きとったガーゼ、その後の“汗”をふいた脱脂綿、1月4日の“涙”をぬぐった脱脂綿が、同時に検査のために提出された。検査対象がどこから採られたかは明かさずに純客観的な調査を依頼。結果は、ガーゼに付着している血は人血でB型、脱脂綿に付着している涙のヒト体液はAB型と判定。鑑定者は勾坂馨。

二度目の検査は、1981年8月22日に依頼。前回、鑑定物件に他の人間が触れたため多少の汚れが付着(A型B型)していたこと。また、血液と涙に差異があったのに、“聖母の血液型はB型”と断定して報道されてしまったため。細心の注意をはらい、用意した真新しい脱脂綿をピンセットで大豆大にまるめ、聖母像のアゴの下にたまっていた涙のしずくを充分に沁みこませ、新しいビニール袋に納めた。ただちに同日午後、秋田大学へ持参。医学部生化学第一教室の奥原英二教授を通じて、岐阜大学医学部法医学教室の勾坂馨教授に鑑定を願う。結果は、

「鑑定 一、検体にはヒト体液が付着しているものと考えられ、その血液型はO型と判定された。 昭和五十六年十一月三十日 岐阜大学医学部法医学教室 鑑定人 勾坂馨 印」。
この時の克明な検査記録の文書コピーが、同じく『聖母マリア像の涙』に巻末付録(前出)として掲載されています。

この巻末付録には、韓国で1981年8月4日、15日、12月9日の3回「秋田の聖母」の出現を受けて、脳腫瘍の奇跡的な治癒(教会公認)の恵みを受けたテレジア・千善鎬さんへのインタビュー記事も掲載されています。

それによりますと、当時、韓国のカトリック教会では、103名の殉教者が福者から聖人の位にあげられるための列聖運動が盛んで、いたるところで不治の病人の奇跡的治癒が願われていたそうです。テレジア・千の姉たちは、韓国の聖人ができるためにも、103名の殉教者の功徳によって奇跡的治癒の恵みが与えられるようにと、秋田の聖母マリアの取り次ぎを願って、病人の枕元に秋田の聖母像の涙の写真を飾り、神に切なる祈りを捧げたのです。知人友人を通じてあらゆる方面に呼びかけ、熱心に祈るグループが形成されました。身近な人々は断食をして、病人を囲んで祈ること40日間に及んだそうです。出現と奇跡的治癒はその結果といいます。

1983年3月から4月にかけて、ソウルのカトリック教会では103人の福者を聖人の位にあげるための委員会が組織されました。そして、この秋田の聖母マリアによって起こった奇跡を認め、カルジナルをはじめ、この委員会の名のもとにローマに申請書を送り、バチカン当局に受理されたのです。1984年5月に、韓国の103人の殉教者たちは列聖されました。

この項の終わりに、当時の教会からの批判の矢面に立ちながら、事実を伝えることこそが報道の義務という信念を最後まで貫いた勇気ある編集長の目撃証言を載せておきたいと思います。


1976年5月13日 山内夫妻、安田神父、シスターたち、秋田教会の婦人たち、35人
山内継祐氏(「カトリックグラフ」編集長)による証言。

久しぶりに見るマリア像のアゴの部分が、白く塩を吹いている。5月1日と2日に涙が流れたとき拭かずにおいたため、涙が乾いたあとアゴや足元に白く塩を吹いた状態で残ったのだという。

マリア像の顔の部分が真黒く見えた。修道女から以前に、ときによって顔色が変わると聞いてはいたが、こうも黒光りする顔色を過去の取材中見たことはなかった。あの話は本当だったのかな、と私は思った。それにしても、いま目前にある像の顔色は黒すぎる。それに、テカテカと光りすぎているのではないか。私は像に近寄り、油を塗り込めるなどの細工がほどこされていないことを確認した上で、修道院応接間に引き返した。そこに保存してある「カトリックグラフ」のバック・ナンバーからこの像の写真を見つけて、現状と比較するためである。

写真はどれも、いま見た像ほどには黒くなく、光ってもいない。当時の撮影条件を思い出しながら比較したのだが、この日の像の黒光りするさまは、私にとって異常だった。
(4ページほど略。このあと、昼の祈りのとき山内氏は自身が編集する「カトリックグラフ」誌の窮状を訴え、もし聖母像からの落涙現象が神からの真実ならば、自分の目の前で聖母像の涙を見せてほしい、そうすれば堂々と胸を張って書き続けることができるから、と祈る。昼食後、山内夫妻は再び聖堂へ行く)。

聖堂へ入り、祭壇右奥のマリア像に目をやった私は「あれっ?」と声を上げた。像が白いのである。顔の部分だけでなく、全体に白々としている。顔の白さは、午前中の黒さが印象的だっただけに、きわだっている。

「オーイ」と妻に声をかけて促し、私は祭壇へ一気に歩み寄った。白い像の胸元に一点の黒いシミ。トランプのスペード印を逆さまにした形のそのシミに、私は見覚えがあった。昨年3月に涙が流れたとき秋田市内の写真家が撮ったカラー写真に写った涙の跡が、確か同じ形であったはずだ。

私はマリア像に近づき、像の顔から30センチ、いや10センチくらいの位置で観察しようとした。その私の鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。水滴の止まった部分から像のアゴにかけて水跡は続き、アゴ先にも大きな水滴。さらに喉の部分が濡れ、そして胸元のくぼみにたまった水が服の上端でせき止められていた。逆スペード型の黒いにじみは、せきを切って流れ出た水の浸み出たあとであった。
それだけのことを、私は一瞬のうちに見たように思う。一歩退いて像を見たまま、「出てるぞ!」と私はいった。「恐い」と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。

初めに「本当に、涙なのだろうか」と考えた。祭壇脇の香部屋に足を運び、誰もいないこと、その部屋の手洗い用水道が使われた形跡のないことを、まず確認した。それから像の真上の天井に雨漏りの跡のないことを確認した。デコラ張りの祭壇脚部や聖堂のグラスなど湿気によって水滴のつきそうな部分を目で追い、その可能性を探した。それらの作業には1分もかからなかったろう。像は右目をうるませ、涙を流し、胸元にたまった涙は服の部分に浸み出たままである。
(1ページ半ほど略。山内夫妻は、聖母像の前で祈り始める。神がすぐそばにおられることを実感しながら、生まれて初めて無心に祈る。それから、司祭や修道女、巡礼者たちに涙のことを知らせに走る。聖堂へ戻ってみると)。

マリア像は、依然として白かった。誰が促すともなくロザリオの祈りが始まり、それはすぐに全員の祈りとなった。私は聖堂脇に置いたカメラを手にして安田師に撮影許可を動作で求めた。師は黙ってうなずかれた。フィルムをわずか2枚しか残さなかったことを後悔しながら、「ブレてくれるなよ」と祈るような気持ちでシャターを押す。
ロザリオの祈りが続いた。不覚な話だが、ロザリオを持参しなかった私は、手の指をもう片方の手で握りながらそれに加わった。

祈りながら私はマリア像を、穴のあくほど見つめた。背負った十字架から指先まで白い像の、とりわけて白い顔。被ったベールや服の輪郭が輝くように見えるのは錯覚なのだろうか。マリア像の表情からあのきびしさがすっかり消えている。私は、ふと、この顔はキリストなのではないか、と思った。マリアの姿をとってはいるが、キリスト像なのではないか――
それまで考えてもみなかった思いに、私はしばらくの間とらわれていた。

ロザリオの祈りが1環の終わりに近づいたとき、像胸元のにじみがすうっと消えていった。「あ、涙が消えてゆく、消えてゆく……」と思っている間の、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは頬の涙やアゴの涙は確認出来ず、胸元のにじみの変化だけが鮮かに目に映った。

すべてが終わったあと、残された時間を妻と二人でさらに聖堂で過ごした。私は「これが神の答えだな」と確信していた。苦しくても辛くても、グラフ刊行を続けよ、という神の意志を、私は感じ取った。むろんこの日の出来事は、神による他の意志表示であったかもしれない。しかし私には、確信だけが残った。懸命に祈れば神の応えがあるものだ。そんな、いまさらながらの祈りの意義を私は思い知らされた。

私たちは予定された汽車に乗って秋田を離れた。ガラ空きの急行だったが、私も妻も声一つ出ない。夫婦喧嘩のあとの気まずい沈黙とはまったく違う、豊かに満たされた沈黙を、私たちは味わっていた。たまに口を開くと、それは自分たちの生涯に二度とないであろう奇蹟の話となり、それを語りあうたびに二人とも、にじむ涙を押さえ切れなかった。

「見たままを言っても、誰も信じてくれないでしょうね」と妻はいい、
「だって、現に見た私でさえ、いまだに信じられない気持ちだもの」と付け加えた。
「マリア様は、『見たことを伝えなさい』って……」
「やるしかないだろう。でも、狂信者扱いされるだろうな」と私は答えた。
「しかたがないよ、見ちゃったんだもの」という私のつぶやきに、妻は黙ってうなづく。

いまでも、私は友人にあの出来事を話すたびに涙が出る。それを感情の昂ぶりといわれるならそれでもよい。ありていにいえば自分では、うれしさと感謝の念のない混じった涙ではないかと思っている。

(山内継祐氏の証言は、前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』より抜粋)。  

Posted by tayori at 07:50旅行資料

2010年03月28日

Our Lady of Akita No.2

<天使の働き>

秋田の聖母出現の場合、ルルドやファティマと比較して特徴的なのは、天使の目覚しい働きぶりです。聖母への取りつぎのみならず落涙現象の解説まで引き受けています。当初、ルルドやファティマのときと同じく、公的なテキストのみに注目して他は省略しようと思っていました。しかし、テキストを何度も読み返すうちに、これはひょっとして日本が、カトリック信者が1パーセントに満たない宣教地だからではないかと思い当たりました。霊的な戦いの激しさを垣間見るような思いがしてきたのであります。

ルルドやファティマの場合では、すでにカトリック信仰のための文化的素地が出来上がっていました。従って、出現があっただけで周囲は待っていたように素直に聖母と直感して、先へと進んでいきます。秋田の場合には、天使が「マリア様」とはっきり明言しても、出現を受けた修道女や修道会までもが疑念や不安に揺れ動いたのです。この不安定な霊的状況は、日本のカトリック教会において現在まで続いているように思われます。

天使の働きは、このような霊的環境の落差を埋めるためのものではなかったでしょうか。その証拠に、聖母が出現される1週間ほど前には、顕示されたご聖体を礼拝する無数の天使たちの姿が3度も現われています。聖母が出現されるためには、それだけの天使たちの働きが必要だったのでしょう。

とすれば、たとえ公的なものではなく私的共同体的な内容であっても、天使の働きについて詳しく記すことは必要なことではないかと考え直したのです。

1965年(月日不明) 笹川の姉の死(後に、笹川は守護の天使の姿を亡き姉かと見間違う)。
姉は、胃ガンで死亡。入院中は、笹川が母親とともに専心看護にあたる。姉の夫から頼まれて“神様の話”を聞かせ、まもなく洗礼に導いた。幼い3人の子を残すのが気がかりな姉は、夫とも仲のよい笹川に、自分の主婦の座を継いでほしいと願ったが、笹川は、今までの恵みを感謝するため、神に身を捧げる決心を告白した。姉はすぐ了解し、「天国に行ったら、修道院に行けるよう祈ってほしい」との妹の頼みも聞き入れた。そして、「もし修院へ入れたら、天国へ行ったしるしね」と言い合った。

1969年(月日不明) 笹川は風邪の高熱で倒れ、4日間意識不明の状態になる。
2日目の夜に病油の秘跡を授かる。意識不明のまま、感謝の祈りとして主祷文、天使祝詞、栄誦、使徒信経をラテン語で唱える。もちろんラテン語を学んだことはなかった。
付き添いの母の言では、胸に手を組んだままたえず何か祈っていた。

笹川の夢の記憶〔守護の天使がファティマの祈りを教える〕
「きれいな野原のような所で美しい人に手招きされているのに、ガイコツのようにやせこけた人々にすがりつかれて、そちらへ行けないでいたり、清水を求めて争い、人をおしのけて濁った河に落ちる哀れな人々の姿に胸をいためたりして、そんな人のためにも祈ったりしていました。とくにロザリオの祈りを唱えつづけていました。ところが、そのうち、ふいに、ひとりの見知らぬうるわしい女の方(1973年7月6日に笹川の守護の天使とわかる)がベッドの右側に現れてきて、一緒にロザリオの祈りを唱えて下さったのです。そして一連の終わりに、わたしの知らない祈りを加えられるので、おどろいてあとをついて唱えました。すると、“ロザリオの各連のあとにこの祈り(後に、「ファティマの祈り」とわかる)をつけ加えなさい”と教えられました」。

(1973年5月12日 同年3月16日より進行性難聴で全聾になった笹川が、秋田の聖体奉仕会本部に入会。祈りと犠牲による神への奉仕を志す)。

1973年6月24日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
1973年6月28日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
(笹川の左掌に傷が現われ痛み始める)。
1973年6月29日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
女性の姿(笹川の守護の天使)がロザリオを一緒に祈る。

1973年7月5日  守護の天使がロザリオを一緒に祈る。
1973年7月6日  守護の天使が笹川を聖堂へ導き聖母へ取り次ぐ〔聖母の最初のお告げ〕。

1973年7月27日 守護の天使が、聖母像の出血と笹川の掌の傷がこの日で終わることを告げ、聖母像の出血現象の意義を説く〔出血現象についての説明〕。

1973年8月3日  守護の天使がロザリオを一緒に祈る。そのあと、守護の天使が聖母へ取り次ぐ〔聖母の第2のお告げ〕。

  同日真夜中頃 守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
守護の天使の「起きなさい、起きなさい」という声に、呼び覚まされる。飛び起きてドアを開くと、異様に焦げ臭い。階下の台所へ行くと、他のシスターが消し忘れたヤカンが火の玉のように真っ赤に燃えさかっていた。

1973年8月4日  守護の天使が、笹川をサタンの攻撃から守る。
聖堂へ入ろうとする笹川の肩につかみかかった黒い影(サタン)に身動きがとれず、守護の天使に助けを求めると、守護の天使が現れて先立たれる。何事もなかったように笹川は聖務につくことができた(同様の攻撃がこのあと2回ほどあった)。

1973年9月29日 守護の天使が聖母像の汗を拭くように促す〔発汗現象についての説明〕。

1973年10月2日 伊藤司教とシスターそれぞれの守護の天使が姿を現す。
ミサに参加しているシスターそれぞれの守護の天使が礼拝している姿。聖体拝領のときにシスターそれぞれの右肩に付き添う守護の天使の姿。司教とシスター7人に天使の数が8位。

1973年10月7日 守護の天使〔芳香現象についての説明〕。

1973年10月13日 〔聖母の第3のお告げ〕守護の天使が笹川の質問についてたしなめる。
笹川が「私の長上とはどなたでしょうか」と聖母に念のために尋ねると、守護の天使が「このような機会に伺うのなら、もう少し大事なことがあるでしょうに」とたしなめるのを感じた。

1974年1月31日 守護の天使が夢の中で笹川を助けて、屋根を支える。
笹川は、前日の大雪で屋根がつぶれそうになっている夢を三度も見る。夢の中で、天井を懸命に支えていたが、腕が堪えられなくなるたびに守護の天使が現れ、代わって支えてくださる。目が覚めると、肩はこり胸は苦しく汗びっしょりになっていた。念のために責任者が外に出て見てみると、夢は現実の危険だった。すでにかなりの垂木が折れて、母屋の屋根の大部分が窓がまちの上10センチ位まで落ち込んでいた。慌てて屋根の雪を落とすために、下の村へ救援を頼む。春になってから屋根を修復した大工は、被害に驚き、垂木が42本も折れていると告げた。

1974年2月25日 守護の天使が他のシスターの祈りを助けるようアドバイス。
守護の天使「いま悩み苦しんでいるひとりの姉妹がいます。あなたはこの姉妹の身につけている物を一つ借りてきて、初金曜日まで身代わりになってあげなさい。その日になったら、その人への返事をしましょう」。

笹川はすぐ、それと思われるシスターのところへ行き、首のメダイを奪うように取って聖堂の祈りのグループへ戻る。驚いたことに、笹川はそのあと全然お祈りが出来なくなる。「気が散って祈れない」とは、こういうことだったのかと悟らされる。メダイを笹川に貸したシスターは、こんなにお祈りが出来るなんてと、明るい笑顔。笹川は、四旬節中でもあり必死になって祈りと断食を続ける。

初金曜日朝、例のシスターは笹川が身代わりになってくれていたことを悟り、あかるい笑顔で礼を言う。夜、そのシスターと二人で祈っていると守護の天使が現れ、笹川に「信じなさい、委せなさい、祈りなさい」と忠告を伝える。隣にいたシスターがそれを聞いて復唱すると守護の天使の姿は消えた。笹川がメダイを返すと、彼女はすぐに首にかけ、聖母像の前へすすみでてひれ伏して「マリア様、私は信じます。委せます。祈ります」と祈った。

(1974年3月10日、安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住される)。

1974年5月1日 守護の天使が、安田神父のマリア庭園造園計画を励ます。
守護の天使「あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。

ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい」。
(その後、聖母像の製作者若狭氏による、同じ桂材で対になるように彫られたヨゼフ像が、ある奇特な方から寄贈され、聖堂に安置された)。

1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告する。
(笹川の耳は、前述のように1973年3月16日から全聾の状態だったが、そのことが妙高教会の聖堂守り兼カテキスタの奉仕生活をやめて聖体奉仕会へ入会するきっかけになった)。

守護の天使「あなたの耳は八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい。そしてあなたを導くお方にこのことを話しなさい。あなたはその日が来るまで、他に話してはなりません」。

1974年6月10日 迫害の夢の中で、守護の天使が笹川の汗を拭く。隣室の蛇を教える。

〔迫害を受ける夢〕
笹川「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。
私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭(かしら)のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。
『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神とみとめないのか。神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』

そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。
『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』

すると相手は
『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』
と念を押すので、
『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
と答えると、蛇が一だんと強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。怖ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。助けを求めて見まわすと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついてるから、がんばってね』とそれぞれの眼(まな)ざしが言うだけです。日ごろ頼りにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。

もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の御名(みな)によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責めたてていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。

ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。
そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした」。

安田神父の解釈「これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う」。

〔守護の天使が、隣りの部屋に蛇がいることを知らせる〕
笹川「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」。

1974年6月28日 守護の天使が、会の指導司祭として安田神父の任命を要請。
伊藤司教はこの要請を受け入れ、非公式に任命。

1974年8月8日 三位の天使が、安田神父の病気の治癒を予告。
安田神父はミサの福音朗読の直前に大腸破裂により入院。危険な手術に臨む。
笹川が祈っていると、突然、手術室の様子が同時進行のヴィジョンとして現われ、手をつけかねている医者たちを安田神父の兄や甥(両名とも医師)が説得している緊迫したやりとりを聞く。場面が変わって、笹川は、手術台とその上の安田神父の周囲に三位の天使が出現して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美し、礼拝している姿を見る。

笹川は、シスターたちに「神父様の病気は大腸破裂で、大変だとお医者様たちが言っています。けれども、天使たちが祈っているのを見たので、きっと治るでしょう」と告げた。
(安田神父が倒れたことにより、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性がなくなった)。

1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告する。
守護の天使「今朝の食卓で、夢(1974年6月10日に笹川が見た迫害の夢)のことが話題になったでしょう。心配することはない。今日からでも明日からでも、あなたの好きな“九日間の祈”をつづけなさい。九日間の祈を3回つづけている間に、御聖体のうちにまことにまします主のみ前で、礼拝中のあなたの耳が開けて、音が聞こえ治るでしょう。まっ先に聞こえてくるのは、あなたがたが、いつも捧げているアヴェ・マリアの歌声ですよ。その次に、主を礼拝する鈴の音が聞こえるでしょう。

礼拝が終わったら、あなたは落ち着いて、あなた方を導いてくださるお方に、感謝の賛歌を願いなさい。そこで皆は、あなたの耳が聞こえるようになったことを知るでしょう。この時、あなたの体も癒され、主は讃えられます。
これを知ったあなたの長上は勇気に満ち、心も晴れて証しをするでしょう。しかし、皆がよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって、より信頼して祈りなさい。きっと守られるでしょう」。

「あなたの耳が聞こえるのは、しばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず、また聞こえなくなるでしょう。聖主がそれを捧げものとして望んでおられますから……。
このことを、あなたを導く方に伝えなさい」。

1974年10月13日 守護の天使が予告したとおりに、笹川の耳が一時的に癒される。
安田神父「(夕方5時から)聖体顕示を行い、香を焚くとき、私の胸に“今日は何かありそうだ”とかすかにひびく思いがあった。償いの祈りののち、席にもどってロザリオを共唱する。つづいてアヴェ・マリアの歌……。その終わりごろ、姉妹笹川が畳にひれ伏して、泣いているらしい様子が目にとまった。念祷、聖務の晩の祈りを終え、いよいよ聖体の祝福の時になった。姉妹のひとりの手によって鈴が高らかに振り鳴らされる。私は顕示台をかかげて十字の印を描きながら『主よ、思召しのままにお恵みを与えたまえ』と祈った。

次いで顕示台にむかってひざまずき『天主は賛美せられさせ給え……』と、賛美の連祷の先唱をはじめた。その祈りが終わり、聖歌の指定をしようとしたとたん、姉妹笹川が背後から『神父様、聖歌12番のテ・デウムをお願いいたします』と声をかけてきた。私はすぐふり返り『耳が聞こえるようになりましたか』と聞くと、『はい、今そのお恵みをいただきました』と私の唇の動きを見ることなく答える。

そこで列席の人々(日曜の式なので、外部からの参列者もあった)に向かい『皆さん、5月と9月の2回にわたって天使から姉妹笹川の耳が聞こえるようになるお約束がありまして、そのことが今日実現しました。今これからそのお恵みを感謝してテ・デウム(神への賛歌)をうたいましょう』と告げた。
人々は大そう驚いたようで、それこそ自分の耳を疑う態(てい)であったが、賛歌はすすり泣く声もまじえての感動的なものとなった」。

「司教の指示に従い、私は翌日彼女を伴って、日赤と秋田市立の二つの病院へ行き、耳の検査を求めた。そして両病院から、診察の結果、聴力正常との証明書をもらった」。
(この笹川の耳の治癒は、天使の予告どおり5ヶ月間だけのことで、翌年1975年2月の灰の水曜日あたりから頭痛と耳鳴りが烈しくなり、3月10日には再び全聾の状態に戻った)。

1975年1月4日 守護の天使〔落涙現象についての説明1〕

1975年3月6日 落涙現象の2度目の日 この日から笹川の頭痛が烈しくなる。
1975年3月7日(初金) 守護の天使が笹川を慰める。
守護の天使「(笹川の頭痛と難聴について)御父のお望みの時まで、耐え忍びましょう」。

安田神父「私はその日のうちに姉妹笹川を伴って、市立秋田総合病院と日赤病院の耳鼻科を訪れ、診断を乞うた。この時の市立秋田総合病院の診断書には『両側突発性難聴の疑。初診、昭和五十年三月七日。比較的安静を要し、当分の間加療を要する。(医師田中弘)』とあり、日赤病院の診断証明は次のごとくである。『病名、両感音難聴。付記、高度難聴で計器最大出力でも測定できません。したがって良くなっているかどうかの判定は不能。今後の改善はあまり期待できません。上記のとおり診断証明します。(日付、医師名)』」。

1976年5月1日 守護の天使〔落涙現象についての説明2〕

1976年6月13日 守護の天使が、超能力者と決めつけられた笹川を慰める。
東京の調査委員会のリーダー、エバンジェリスタ氏に笹川は個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。氏はすでに自分の意見として、各方面に「姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である」などと言明していた。

笹川は、氏から超能力の持ち主と言われて驚く。
笹川「それから11時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、“恐れなくともよい”といつものお声を耳にしたとたん、何ともいえぬ心の安らぎを感じました」。

このあと、調査委員会の結論が出るのを待っているかのように、聖母像からの落涙現象は2年2ヵ月の間ピタッと止まっていましたが、エバンジェリスタ氏の超能力説による否定的な結論が出されると、再び落涙現象は始まり、「もはや新たに涙が流れることはない」、「笹川が聖母像の50メートル範囲にいる限り、彼女は超能力によって、御像から涙を流させることができるが、50メートル以上はなれた所からでは、その力を出すことができない」、「笹川がみずからの血と涙(どちらもB型と断定)を“転写”したもの」といった説を、ことごとく覆すようなかたちで落涙現象は続いていくのです。

このシスター笹川超能力者説は、いまだに日本のカトリック教会内で影響力を持っているように思われます。

前記参考文献『聖母像から血と涙』の中で、志村辰弥は超能力説を否定して、「それは、霊界からの干渉と見るべきである。(略)聖書も人毎に守護霊(守護の天使)があることを認め、あるいはトビアの話のように人を指導する霊があること」を教えていると述べられています。

編者も、この項の初めに述べたように、文化的素地と霊的環境の落差を前提として、この志村師の説に賛同する者であります。
さらに師は、その場合、背後霊(守護霊もその中に含まれる)が善霊か悪霊かが問題になってくると述べ、以下のように記されています。

志村辰弥「シスター笹川による超能力現象(編者:私は、超能力という言葉自体が人間中心主義への単なるレッテルのはり替えで無意味だと思います)が背後霊による干渉とすれば、天使の出現や聖母マリアのみ声が現実のものとして易しく受け取れる。ただし、それが悪魔(悪霊)の働きであるかも知れない」。この点については、

1.シスター笹川が受けたメッセージには信仰を誤らせるような点は全くない。
2.祈りや犠牲のすすめによって反って信仰生活の高揚をもたらしている。
3.聖母像を訪れる多くの人が精神的、肉体的(病気の治癒)に沢山の恵みを受けている。
4.事件の発生以来満8年を経過するが、その間、悪魔の働きと見られるような事は全くない。
これらのことによって、反駁されるとし、「この事件は天使及び聖母マリアの直接交渉に外ならないことが明らかである。なぜなら善霊又は天使が聖母マリアの名をかたって、そのようなことをすることは考えられないからである」と、結論されています。

1981年9月15日聖母のお悲しみの記念日 101回目の最後の落涙現象

1981年9月28日 守護の天使〔落涙現象についての説明3〕

1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告する。
守護の天使「耳の不自由は苦しいでしょう。あなたに約束がありました癒しの時が近づきました。童貞にして汚れなきおんやどりの聖なるお方のお取り次ぎによって、前に癒された時とまったく同じように、御聖体のうちにまことにましますお方のみ前で、耳が完全に癒され、いと高きおん者のみ業が成就されます。これからもいろいろと困難や苦しみ、外部からの妨げがあるでしょう。恐れることはありません。忍耐してそれらを捧げるならば、必ず守られます。よく捧げて祈ってください。このことを、あなたを導いてくださるお方に告げて、お導きと祈りをいただきなさい」。

1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告する。
守護の天使「あなたの耳は、汚れなき聖母のみ心に捧げられたこの月のうちに、完全に癒されるでしょう。前と同じように、御聖体のうちにまことにましますお方によって癒されます。このしるしによって信ずる者は、多くの恵みにあずかるでしょう。反対する者もあるでしょうが、少しも恐れることはありません」。

笹川は、二重人格的作用と言われたことが気になっていて、守護の天使に尋ねる。
「あなた様は、私自身が私に語っているものでしょうか」。
守護の天使は頭を振り、「そうではありません。私はこれまであなたに姿を現して導いてきましたが、これからはもう姿を見せることはありません」と答えられた。
そして彼女を離れて、この世ならぬ美しさの、まさに天上的な輝きの天使群に吸い込まれて行かれた。

1982年5月30日聖霊降臨の祭日 守護の天使に予告されたとおりに、笹川の耳が完治。
安田神父「この日はめずらしく訪問客が少なく、ただかねて“お涙”の鑑定の際お世話になった奥原英二教授夫妻だけが、折よく(あとからみればまさに最適の立会人という感じで)礼拝に参加された。

1時間あまりの礼拝の式がすすみ、私が聖体顕示台をかかげて一同に祝福を与え、鈴が打ち振られた瞬間、前回同様、その音を合図に姉妹笹川の耳は開けたのである。私が例のごとく聖体讃美の祈りを唱え終えたとき、彼女は背後から呼びかけ、『いまお恵みをいただきました。感謝のためにマグニフィカトをおねがいいたします』と言った。(そうか!)感動をうなずきだけに抑えた私は、御聖体を聖櫃におさめてから一同に向かい、天使の二度の予告と、いま姉妹笹川の耳がその通りに癒されたことを語った。次いで指示した賛歌は、言いつくせぬ感謝と涙にあふれる感激のうちに、高らかにうたわれたのであった。

翌日姉妹笹川は、かねてお世話になっている日赤病院の耳鼻科に診断を受けに行った。細部にわたっての検査の結果、耳は完全に治っていることが証明された。医師は非常に感銘を受けたらしく、看護婦全員と起立して、「おめでとうございます」と深く頭をさげて祝辞を述べた。

6月14日、伊藤司教はみずから病院へ出向き、かの耳鼻科部長・荒井辰彦医師に“これは奇跡的治癒である”との証明を一筆いただきたいと頼んだが、これはことわられた。前の症状を知る者としては奇跡的治癒としか考えられないが、現在の医学界では診断書に“奇跡”の文字を使用するわけにはいかないから、ということであった」。

1990年4月14日 守護の天使の声が、指導司祭として再度、安田神父の任命を要請。
この要請も伊藤司教に伝えられ、司教は後任の教区長へ伝えられたと思われるが、安田神父は1987年に聖体奉仕会への定住が禁じられて静岡県へ転住、そのまま任命されることなく現在に至っている。

さて、天使の働きについてほとんど全部を列挙してきましたが、その八面六臂の活躍ぶりに驚くのは編者だけでしょうか。笹川個人のみならず所属する共同体のためにも、聖母への取り次ぎや霊的現象の解説から、霊的成長のための指導、励まし。サタンの攻撃から守り、火事の危険を知らせ、大雪で生き埋めになるところを助け、耳の治癒のために恵みの取りつぎまでしているのです。

こんなに心強い味方がいればどんなにありがたいことだろうと、編者などはうらやましく思います。しかし、それは裏返してみれば、聖母出現とそれが意味する神からの使命がそれだけ大変なことだったということではないでしょうか。スリル満点の大活劇は、映画などでみるときには楽しく面白いし、そんな目にあってみたらワクワクするだろうと憧れるかもしれませんが、現実に事件に巻き込まれている当事者にしてみれば、冷や汗、あぶら汗の連続で、とてもストレスで体がもたないでしょう。編者も、落ちこぼれのような神秘体験を恵まれた者の一人として身にしみるのであります。実際、安田神父は大腸破裂のうきめにあっておられます。このような場合、使命を遂行するためには、どうしても命がけの覚悟が必要になってくるのでしょう。

また、こうして並べてみると、神の摂理が見事なまでに構成された順序によって実現されていくのを見せられる思いがします。聖櫃からの光に始まり、無数の天使、次ぎに一人の守護の天使、聖母への取りつぎによる出現、出血現象、発汗現象、芳香現象、悪臭、落涙現象、守護の天使の別れ、聖体礼拝による耳の奇跡的治癒の恵み。つまり、聖体に始まり、聖体に終わっています。聖体に奉仕するために創られた聖体奉仕会の名にとって、ふさわしい構成ではないでしょうか。

煩雑に思われるかもしれませんが、もう一度、構成要素のみを並べて、その展開を見てみましょう。何度も現れる3という数字は、三位一体等、神の数字として古より知られているところです。


秋田の聖母出現における恵みの展開と発展拡大

1.恵みの前段階(約8年間)。

1965年(月日不明)笹川の姉の死
笹川は姉を洗礼に導き、姉はあの世での祈りを約束。
笹川は姉に、神に身を捧げる決心を告白。
(1965年12月7日 第2ヴァチカン公会議の終結)。
(1966年 伊藤司教が、創立三姉妹と相談し「聖体奉仕会」と命名)。

1969年(月日不明)笹川の守護の天使との最初の出会い。
意識不明のとき、夢の中で天使に「ファティマの祈り」を教わる。
(1969年4月3日 ヴァチカンより、新ミサが公布される)。
(1969年5月29日 ヴァチカンより、「手による聖体拝領」が黙認)。
(1969年 「聖体奉仕会」が宗教法人の認可を受ける。三姉妹初誓願)。
(1970年9月8日 「聖体奉仕会」修道院落成。ウニオピアとして司教認可)。

(1972年5月8日 イタリアのゴッビ神父が、ファティマにて聖母からの呼びかけを聞く)。
(1972年10月13日 ゴッビ神父他2人の神父が、司祭のマリア運動を始める)。

1973年3月16日 笹川が進行性難聴で全聾になる。
1973年5月12日 笹川が聖体奉仕会へ入会。
この時点で、姉との約束が実現(「修院へ入れたら、天国へ行ったしるし」)。
1973年6月 初代指導司祭が湯沢台を離れる。

2.恵みの準備段階(33日間)=影響範囲は笹川個人。

1973年6月12日 聖櫃から光1(3日間続けて3回)。
1973年6月13日 聖櫃から光2。
1973年6月14日 聖櫃から光3。聖体ランプの炎上(主の現存の強調)。

1973年6月24日 聖体から光、無数の天使1(3回)。
1973年6月28日 聖体から光、無数の天使2。
笹川の左掌の傷、出血(償いの出血30日間)。
(この左掌の傷により、笹川はご聖体を口で拝領)。

1973年6月29日(金) 聖体から光、無数の天使3。イエズスの聖心の祝日。
笹川の守護の天使の出現1(3回目に聖母へ取り次ぎ)。
1973年7月5日 笹川の守護の天使の出現2。

3.恵みの展開段階(102日間)=影響範囲は聖体奉仕会内。

1973年7月6日(初金) 笹川の守護の天使の出現3、聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ1〕(お告げは3回)。聖母像の右掌の傷、出血(犠牲の出血22日間?)。
(1973年7月7日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第1メッセージ「私はいつもあなたのそばにいます」)。

1973年7月27日(金) 聖母像と笹川の掌からの出血の終結。
〔1聖母像出血現象の説明〕(現象の説明は3回)。聖母像の傷は残り、笹川の傷は見事に消える。
(1973年7月28日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第8メッセージ「警戒し祈りなさい 私の子である多くの司祭は、福音を裏切り、悪魔的な誤謬であるマルキシズムを支持しています」)。

1973年7月28日 伊藤庄治郎司教から3つの質問(回答はこの日を含めて7日後)。
1973年8月3日(初金) 聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ2〕司教への答えを含む。笹川は捨石になる覚悟を表明。
真夜中頃、守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
1973年8月4日 守護の天使が笹川をサタンから守る(この日を含めて3回)。
(1973年8月 聖体奉仕会の準会員制度が始まる)。

1973年9月29日(土) 聖母像の傷がなくなる。大天使聖ミカエルの祝日。
〔2聖母像発汗現象の説明〕。発汗を拭いた脱脂綿から天国的な芳香(17日間)。
1973年10月2日 聖変化の聖体から光。守護の天使の祝日。
ミサの参加者それぞれの守護の天使8位の出現。
1973年10月7日 芳香現象は15日までと予告。ロザリオの祝日。
〔3聖母像芳香現象の説明〕。小テレジアと大テレジアの記念日に特に強烈に匂う。

1973年10月13日 聖櫃から光、聖母像から芳香。ファティマ太陽の奇跡の日。
〔聖母からのお告げ3〕。
1973年10月15日 恵みの展開段階の終結。大聖テレジアの記念日。

4.恵みの維持段階(約1年間)=影響範囲は聖体奉仕会とその周辺地域。

1973年10月16日 ものすごい悪臭と蛆虫(3日間)。
(1973年を境に、日本の出生数と出生率は低下のなだらかな坂を下りはじめます。生命の与え主、支え手であり生命の主であるイエズス・キリストとその母マリアを拒絶すれば、当然のなりゆきかもしれませんが。日本人はこのことを理解していませんので、この低下傾向は2010年現在も続いています)。

1974年1月31日 守護の天使が、大雪で生き埋めになる危険から修道会を助ける。
1974年2月25日 守護の天使が、他のシスターへ祈りのアドバイス。
1974年3月10日 安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住。
(聖体奉仕会では、笹川の入会と入れ違いのように司祭が去られ、不在だった)。

1974年5月1日 守護の天使が、マリア庭園造園計画を励ます。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使が、聖ヨゼフへの信心のしるしを表すように要請。
1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告。8月か10月。
1974年5月30日 聖母像の顔色が赤黒く変色。顔の表情も時々に変化。

1974年6月10日 夢の中で守護の天使が笹川の汗を拭く。
〔神学者からの迫害の予言的な夢〕。守護の天使が、隣室の蛇を知らせる。
1974年6月28日 守護の天使が、指導司祭として安田神父の任命を要請。
1974年8月8日 笹川の、安田神父の手術のヴィジョンのなかに3位の天使。
(安田神父が倒れられたので、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性はなくなる)。

1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告。
1974年10月13日 天使の予告どおりの耳の治癒。ファティマ太陽の奇跡の日。
(この予告どおりの一時的な耳の治癒に伊藤司教は勇気付けられ、この一連の出来事について、神学者たちに検討を願うことにふみ切られた)。

5.恵みの新たな展開(約1年半)=影響範囲は日本全国。

1974年11月3日 雑誌「カトリックグラフ」からの取材訪問の申し込み。
1974年12月 雑誌「カトリックグラフ」にトップ記事「秋田に聖母が出現!の噂を追う」。
1975年1月4日(初土) 聖母像からの最初の落涙現象3回。目撃20名。
〔聖母像落涙現象の説明1〕(説明は3回)。このときの涙、保存されていた血、汗で第1回目の検査。

1975年3月6日 聖母像からの4回目の落涙現象。目撃15名。
雑誌「カトリックグラフ」の米田記者来訪、聖母の涙を目撃。
1975年3月7日 笹川は昨日から頭痛に悩み、この日から再び全聾となる。
守護の天使が、再び全聾になった笹川を慰める。

1976年5月1日 聖母像からの5~8回目の落涙現象。目撃50名。
〔聖母像落涙現象の説明2〕。社会の第一線に立つ壮年信者の“安信会”メンバーが目撃。
1976年5月2日 聖母像からの9回目の落涙現象。目撃55名。秋田市内の医師4名を含む。
この2日間の“安信会”メンバーの目撃証言が、「カトリックグラフ」誌に掲載される。
これらの証言は、後に前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』に再録(前項参照)。

1976年5月13日 聖母像からの10回目の落涙現象。目撃35名。
「カトリックグラフ」誌編集長、山内継祐氏夫妻来訪。落涙現象を目撃(詳細は前項参照)。
(「カトリックグラフ」誌がほぼ独占的に報道。幾つかの週刊誌がこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映。逆にカトリック報道機関は意固地に黙殺)。

6.恵みの待機(約2年2ヵ月)=影響範囲は日本全国から近隣の国外へ。

1976年5月17日~24日 超能力説のエバンジェリスタ氏来訪、シスターの黙想指導。
これは1年前から氏に調査を依頼していた伊藤司教の賛同による企画。
安田神父は、三重県鈴鹿市の教会での講演で留守。笹川は、母危篤の報を受け郷里へ帰る。
この間に他のシスターたちは、聖母の恵みへの信念をぐらつかせる。
(伊藤司教は、東京大司教に頼んで調査委員会をつくって調査を始めてもらう。エバンジェリスタ氏はその調査委員会のリーダーとなる)。

この頃、伊藤司教は調査委員会の指示によりカトリック界の広報機関であるカトリック新聞に、“秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する”旨を公示。

1976年6月13日 笹川はエバンジェリスタ氏に個人的に呼び出され、洗脳工作を受ける。
守護の天使が、超能力者と決め付けられた笹川を慰める。
1976年6月14日 笹川はショックで桜町病院へ入院。3週間後、矢立温泉へ療養。
3ヵ月後、聖体奉仕会へ戻ってきても、雰囲気がガラッと変わって針のむしろの心地が続く。
この第一次調査委員会は、2年後の1978年に調査の結果としてその超自然性について否定的結論を出した。

7.恵みの発展段階(約1年間)=影響範囲は日本近隣国からさらに海外へ。

1978年7月26日 聖母像からの11回目の落涙現象。目撃46名。
第一次調査委員会の否定的結論を待ち設けたかのように、再び落涙現象が始まる。
1978年10月11日 聖母像14回目の落涙現象。カリタスシスター2名。笹川は帰郷中。
1978年11月6日 聖母像17回目の落涙現象。メリノール会、聖ヨゼフ会シスターなど。
1978年12月5日 聖母像16回目の落涙現象。目撃16名。ブラジル2名を含む。
1979年1月24日 聖母像23回目の落涙現象。目撃13名。静岡、京都。
1979年3月7日 聖母像25回目の落涙現象。目撃10名。韓国を含む。笹川は外出中。
1979年3月25日 26回目落涙現象。涙夥しく聖母像の台をぬらす。聖霊会シスター等。
1979年4月8日 聖母像30回目の落涙現象。目撃23名。笹川は外出中。
1979年5月6日 聖母像34回目の落涙現象。聖体降福式の間。笹川は入院中。
1979年5月10日 聖母像36回目の落涙現象。目撃17名。韓国シスター3名を含む。
1979年5月26日 聖母像43回目の落涙現象。目撃11名。韓国の呉神父を含む。
1979年5月29日 聖母像46回目の落涙現象。目撃11名。安田神父は留守。
1979年6月2日 聖母像48回目の落涙現象。目撃12名。笹川は外出中。
1979年6月23日 聖母像63回目の落涙現象。目撃は秋田市長はじめ市内招待客多数。
1979年6月26日 聖母像65回目の落涙現象。目撃13名。韓国カルメルシスター。
1979年6月29日 聖母像67回目の落涙現象。笹川ほか外出中。
1979年7月7日 聖母像70回目の落涙現象。目撃11名。笹川は外出中。
1979年7月13日 聖母像76回目の落涙現象。目撃10名。笹川ほか外出中。
1979年7月16日 聖母像79回目の落涙現象。目撃12名。安田神父は留守。
1979年7月24日 聖母像85回目の落涙現象。目撃14名。ケヌエル神父を含む。
1979年7月25日 聖母像87回目の落涙現象。目撃30名。高崎のヨゼフ神父と男女青年。
1979年7月31日 聖母像からの94回目の落涙現象。目撃16名。他会シスター3名を含む。
主なものを挙げたが、来訪者は北海道から沖縄まで日本国内。他に韓国とブラジル。

8.恵みの拡大段階(約2年2ヵ月)=影響範囲は世界各国へ。

1979年12月6日 「カトリックグラフ」の山内氏、テレビ局(東京12チャンネル)のスタッフ4名来訪。夜通し6秒間隔の瞬間写真をとるべくセット。第1回目は失敗。
1979年12月8日 落涙現象を目にしたテレビ局員が予定を1日延ばして再度挑戦。
夜8時ごろからの秒刻みのシャッターが、11時過ぎの落涙現象の撮影に成功。
この落涙現象の映像が、全国的に放映されることになる。無原罪の聖母祭日。

1980年5月 伊藤司教による第二次調査委員会の発足。
1981年1月6日 98回目の落涙現象。庄司神父と黙想参加者。(落涙現象は残り3回)。

1981年5月2日 ロンドン・ヒースロー空港でのハイジャック事件の犯人が、ファティマ第3の秘密の公開を要求。ファティマ第3の秘密は公開されないまま犯人は逮捕される。
1981年5月13日 教皇ヨハネ・パウロ2世狙撃事件。事件はファティマ聖母出現と同時刻に起こり、教皇はかろうじて急所をそれた弾道に聖母マリアの御手の働きを認められ、その銃弾は後にファティマの聖母像の冠に感謝とともに埋め込まれた。

1981年6月24日 メジュゴリエ(旧ユーゴスラビアの村)にて、聖母出現が始まる。

1981年8月4日 韓国のテレジア千さん(植物人間状態)に秋田の聖母として出現1(出現は3回、詳細は前項)。
1981年8月15日 韓国のテレジア千さんに出現2、目を覚まして起き出す。聖母被昇天祭日。

1981年8月22日 99回目の落涙現象。目撃44名。伊藤司教、林神父、ジャック神父ほか。
このときの涙を第2回目の検査のために提出。
1981年9月12日 100回目の落涙現象。目撃13名。カリタスシスター2名ほか。
伊藤司教の委嘱による第二次調査委員会の例会最終日。
伊藤司教の“認める”という意見に、メンバー7人のうち賛成4、反対3。

1981年9月15日 101回目(最後)の落涙現象。目撃65名。聖母のお悲しみの記念日。
1981年9月28日 大きな開かれた聖書のヴィジョン。創世記3章15節。
〔聖母像落涙現象の説明3〕。

9.守護の天使の特別な使命の終結と、笹川の耳の完全な治癒の恵み。

1981年12月9日 韓国のテレジア千さんにレントゲン室にて出現3。脳腫瘍の奇跡的治癒。
1982年3月 伊藤司教が第二次調査委員会の報告書をラッチンガー枢機卿に送る。

1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告。お告げの祝日。
1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使としての特別な使命の終結を告げる。

1982年5月12日 ファティマへ感謝のための巡礼中の教皇ヨハネ・パウロ2世、2度目の暗殺未遂事件。
1982年5月13日 ファティマでの演説で、教皇ヨハネ・パウロ2世は自身のことを「黙示録の証人」と語られる。

1982年5月30日 予告どおりに笹川の耳が完全に治癒、現在に到る。聖霊降臨祭日。
1982年9月21日 ヨゼフ・マリ・ジャック神父が、濱尾文郎司教の要請により論文「口での御聖体拝領に関する弁論」を提出(聖ピオ10世会ほかのサイトを参照のこと)。

1983年4月 韓国ソウルのカトリック教会、103人福者の列聖委員会が秋田の聖母による奇跡的治癒を公認。

1984年3月25日 教皇ヨハネ・パウロ2世が、世界各国の司教に呼びかけて“聖母マリアの汚れなき御心”に全世界と諸国民を奉献。この奉献が聖母の要請を充分満たすものであったかどうかは、種々異論のあるところです。
1984年4月22日 伊藤庄治郎司教が司教書簡により、秋田の聖母像への崇敬を公認。
1984年5月 秋田の聖母の奇跡的治癒に基づく申請書により、韓国の103殉教者が列聖。

いかがでしょうか、その構成の見事さ、展開の無駄のなさ。これがいったい人間ワザと言うことが可能なのでしょうか。荘厳さのみならず壮大ささえ感じるのは編者だけなのでしょうか。

<その祈り>

1969年 笹川が意識不明の夢の中で守護の天使から教わった「ファティマの祈り」。
「ああ、イエズスよ、われらの罪をゆるし給え。われらを、地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂をして、天国に導き給え。アーメン」。

1973年6月29日 守護の天使が一緒に祈った祈り。
「すべての民の御母」の祈り。
「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ、おんみの霊をあまねく全世界につかわし給え。しかして聖霊がすべての民の心に宿り、退廃と凶災と戦争から彼らを守らしめ給え。すべての民のおん母が、われらの擁護者(ようごしゃ)ならんことを。アーメン」。
この祈りを教えられたオランダのアムステルダムの聖母出現は、2002年5月31日ハーレム・アムステルダム教区長のヨゼフ・マリア・プント司教によって公式に認められました。
「聖体奉仕会」の創立三姉妹は会の草創期からこの聖母への信心を持っていて、その御絵が秋田の聖母像のモデルになっています。

1973年7月6日 聖母の最初のお告げのとき、聖母が一緒に祈る。
聖体奉仕会の祈り(伊藤庄治郎司教起草の祈りに「まことに」の一語が加えられる)。
「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心(みこころ)よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心(みこころ)に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉(たてまつ)る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨(みむね)のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。
幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」。

(編者:このブログは営利目的ではありません。主と聖母への奉仕活動です。ルルドやファティマと比較して、秋田の聖母出現は内容が人類にとって非常に重要で緊急性が感じられるにもかかわらず、世界的にはまだあまり十分知られているとは言えません。どなたか英語に訳して広めていただければ幸いです。もちろん著作権は放棄しております)。  

Posted by tayori at 07:46旅行資料

2010年03月28日

Our Lady of Fatima


ある出来事について検討するとき、それに関わった人物や時代など、いろいろな角度から眺めることが可能ですが、ここでは出現という中心課題のみに焦点をしぼって出来るだけ簡単にまとめてみたいと思います(文中、太字は編者)。

<その概観> <その内容と要請> <その客観的現象> <その祈り> <その信心>

《参考文献》

セ・バルタス著『ファチマの牧童』中山利喜太郎訳(光明社1979年6月4版)。

『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示――ルチア修女の手記』ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥共訳編(ドン・ボスコ社1992年5月3版)。

アントニオ・アウグスト・ボレッリ・マシャド著『ファチマの聖母 そのメッセージは希望の預言か? 悲劇の預言か?』成相明人訳(『フマネ・ヴィテ』研究会刊1997年10月1刷)。

『ファティマ第三の秘密 教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書』カトリック中央協議会福音宣教研究室訳(カトリック中央協議会刊2001年4月)。

<その概観>

1. 出現の場所

ポルトガルのファティマという村。

2. 出現を受けた人

牧童3人。
ルシア・デ・イエズス・ドス・サントス(1907年3月22日生、2005年2月13日帰天)。
聖母の姿を見て、その声を聞き、対話した。
フランシスコ・マルト(1908年6月11日生、1919年4月4日帰天。列福)。
聖母の姿は見えたが、その声は聞くことが出来なかった。
ヤシンタ・マルト(1910年3月10日生、1920年2月20日帰天。列福)。
聖母の姿を見て、その声を聞いたが、話はしなかった。
フランシスコとヤシンタは兄妹で、ルシアのいとこ。

3.出現の年月日、地名、出現者

年月日        地名             出現者

1916年春      カペソの洞窟のそば      平和の天使
 同年 夏      ルシアの家の井戸そば      同上(ポルトガルの守護の天使)
 同年 初秋     プレグエイラのオリーブ畑   一位の天使
1917年5月13日   コーワ・ダ・イリアの柊の上  天国からの貴婦人
 同年 6月13日    同上             同上
 同年 7月13日    同上             同上
 同年 8月15日   村近くのヴァリニョスの柊の上  同上
 同年 9月13日   コーワ・ダ・イリアの柊の上   同上
 同年10月13日   同上              同上(ロザリオの聖母)
                          幼子イエズス、聖ヨゼフ
1929年6月13日  ポンテ・ヴェドラの修道院聖堂  聖父と聖子と聖霊と十字架
                          ファティマの聖母
上記以外に、私的な出現が3人の生涯にわたって頻繁に起こる。

<その内容と要請>

1916年春 平和の天使
祈りへ誘い、神への祈りとその仕方を教える。

1916年夏 ポルトガルの守護の天使
神への祈りと犠牲、予定されている苦しみの甘受を要請。ポルトガルの救いを約束。

1916年初秋 一位の天使(前2回と同じ天使かどうかは不明)
聖父と聖子と聖霊、キリストへの侮辱を償い罪人の改心を願う祈りを教える。
その後、ルシアにホスチア(編者:ミサに使う薄く白い種無しパン)、ヤシンタとフランシスコにカリスの聖血(編者:カリスは杯、聖血はミサにより主の血に変容したぶどう酒)を与える。

1917年5月13日 天国からの貴婦人
天国から来たことを告げ、6ヶ月続けて13日の正午頃にこの場所に来るように要請。
さらに、7回目の出現を予告。
ルシア、ヤシンタ、フランシスコの3人が天国へ行けることを約束。
冒涜の罪の償いと罪人の改心のため、神が与えることを予定されている苦しみを甘受することを再度要請。
世界平和と戦争(第1次世界大戦)の終結を願って毎日ロザリオを祈ることを要請。

1917年6月13日 天国からの貴婦人
来月の13日にまた来ること、毎日ロザリオを祈ること、読み書きできるように勉強に励むことを要請。
ヤシンタとフランシスコの間近い帰天、ルシアは聖母の汚れなきみ心への信心を世に広める使命のため長生きすることを予言。

1917年7月13日 天国からの貴婦人
来月の13日にまた来ること、世界平和と戦争(第1次世界大戦)の終結のために毎日続けてロザリオを祈ることを再度要請。
10月に自身の名前と希望を知らせること、出現の正銘性のために奇跡を行うことを予告。
罪人の改心のため、聖母への侮辱を償うための苦行をするときの祈りを教える。
ロザリオの各連のあとに付け加える祈り(後にファティマの祈りとして知られる)を教える。

〔ファティマ第1の秘密〕地獄の情景
「マリアは、わたしたちに広大な火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、すべては黒く、あるいは光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震え上がるような苦痛と失望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。このビジョンは、ほんの一瞬の間続いただけでした。天の母マリアが、最初のご出現のときにわたしたちを天に連れて行くことを前もって約束してくださっていたことに、わたしたちはどれほど感謝したことでしょう。もしそうでなければ、わたしたちは恐怖のあまり死んでしまったと思います。」

〔ファティマ第2の秘密〕20世紀の予言
「そのあと、マリアに目を上げると、優しいけれども悲しそうに、こうおっしゃいました。『あなたたちは、あわれな罪びとの魂が落ちていく地獄を見ました。罪びとを救うために、神は、わたしの汚れない心に対する信心を世に定着させるよう望んでおられます。もし、わたしがあなたたちに言うことを人々が実行するなら、多くの魂は救われ、平和を得るでしょう。戦争(編者:第1次世界大戦)がもうすぐ終わろうとしています。しかし、もし人々が神に背くのをやめないなら、ピオ十一世(編者:教皇在位1922年~1939年。聖母がこの名前を口にされたとき、それが王であるのか教皇であるのかさえ知らなかったと後にルシアは証言している)が教皇である間に、もう一つの、もっとひどい戦争(編者:第2次世界大戦)が始まるでしょう。ある夜、まだ見たことのない光がやみを照らすのを見たなら、それは、戦争や飢餓、教会と教皇に対する迫害による世の罪のために今まさに神が、世を滅ぼそうとしておられる大いなるしるしであると悟りなさい(編者:ルシアは1938年1月25日から26日にかけての夜、ヨーロッパの空を覆った不思議な光を偉大なしるしとみなした。次項<その客観的現象>の1938年参照)。それを防ぐために、わたしの汚れない心にロシアを奉献することと、償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするよう、わたしはお願いにまいります。もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう(編者:聖母出現と同じ1917年2月革命、同年10月下旬ボリシェヴィキが政権奪取、1922年人類史上初の無神論国家であるソビエト社会主義共和国連邦成立。しかし、こうした知識を学校に通っていない牧童たちが知るはずもありませんでした)。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアをわたしに奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう』。」

〔ファティマ第3の秘密〕
この部分は、2000年になるまでヴァチカンの教皇庁に保管されたまま公表されませんでした。公表された文書の内容にも不明な点があり、まだ公表されていない部分が残されているのではないかと疑われます。

「すでに述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。この剣は、まるで世界を火で焼き尽くさんばかりに、火花を散らして光り輝いていました。しかしその炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのでした。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。「悔い改め、悔い改め、悔い改め」。それからわたしたちには、はかりしれない光――それは神です――の中に、「何か鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って(編者註)見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だという感じでした」。そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到着なさる前に、半ば廃虚と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し、大十字架のもとにひざまずいてひれ伏されたとき、一団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが、次々に殺されていきました。十字架の両腕の下には二人の天使がいて、おのおの手にした水晶の聖水入れに殉教者たちの血を集め、神に向かって歩んでくる霊魂にそれを注ぐのでした。」

(編者註:1コリント10:12「われわれが今、見ているのは、ぼんやりと鏡に映ってのもの。『その時』に見るのは、顔と顔を合わせてのもの。」フランシスコ会聖書研究所訳『新約聖書』1989年4月改訂15刷参照)。
(〔ファティマ第1、第2、第3の秘密〕は、前記参考文献『ファティマ第三の秘密 教皇庁発表』から抜粋)。

1917年8月15日 天国からの貴婦人(妨害により出現の日時と場所が異なる)
来月の13日にコヴァ・ダ・イリアに行くこと、毎日ロザリオを祈ることを要請。
10月に奇跡を行うことを再度予告。
群集が出現場所に置いていった献金の使途について、行列用の担架、天蓋、衣服、ロザリオの祝日を祝うための費用、聖堂の建築費等にするように。
罪人のための祈りと犠牲を再度要請。

1917年9月13日 天国からの貴婦人
戦争(第1次世界大戦)が終わるようにロザリオの祈りを続けることを再度要請。
10月に、聖ヨゼフと幼いイエズスが全世界を祝福するために来られると予告。
10月に奇跡を行うことを再度予告。
牧童3人の苦行の仕方についての注意。夜は、荒縄を体に巻いて苦行したりせずによく眠るように。

1917年10月13日 ロザリオの聖母
ロザリオの聖母と名乗り、出現場所に聖堂の建築を要請。
毎日ロザリオを続けて祈ることを再度要請。
出現の目的が、信者への改心、罪の痛悔、償いの必要なことを教え諭すためと述べる。
第1次世界大戦の間近い終結を再度予言。
主はすでに多くの侮辱を受けておられるので、これ以上背かないようにと願われる。

1929年6月13日 ファティマの聖母
三位一体の奥義と、この神秘についての表現不可能な啓示が示される。
ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献する時期が来たことを告げる。
奉献の条件(教皇と全世界の司教が一致)と、奉献がなされた場合のロシアの救いを約束。
聖母に反する罪人のために、償いと犠牲と祈りを要請。
(編者:前年の1928年からソ連では第一次五ヵ年計画が始まり、その強引な政策により以後700~1000万人もの餓死者が出ることになりました)。

<その客観的現象>

ここで言う客観的現象とは、出現を直接的に受けた牧童3人以外の第三者(うわさを聞いて集まってきた群集等)に認められた、通常ではない現象のことを言います。

1915年4月~10月 前兆のような出来事が3回
第三者は、羊飼いの少女3人。
ルシアと羊飼いの少女3人が、谷間の木の上空に透明な白い雲か雪のような人間の形を見る。

1916年春 平和の天使
1916年夏 ポルトガルの守護の天使
1916年初秋 一位の天使
上記3回の天使の出現は牧童3人の間だけの秘密にされていたため、第三者はいなかった。

1917年5月13日 天国からの貴婦人
聖母の第1回の出現のときに現場にいたのは牧童3人だけで、第三者はいなかった。

1917年6月13日 天国からの貴婦人
第三者として見物人50~60人ほど。
ルシアが聖母へ話し始める直前、柊のてっぺんが重みがかかったように曲がる。
木の枝という枝はすべて若芽のように黄一色になった。
聖母とルシアの対話が始まった後の数分間、太陽の光が暗くなる。
聖母が語っている間、数人は、ハチの羽音に似たささやき声らしい音を聞く。
出現の終わりに、柊の木の枝は一つ残らずいっせいにもち上がって、順々に聖母の去ってゆく東の方向へなびき伏す。元に戻ったのは数時間後。

1917年7月13日 天国からの貴婦人
推定5~6千人。ファティマ始まって以来の大群集。
出現の始まりと共に、柊の木の上に灰色がかった雲がかかる。
太陽光線が暗くなり、真夏なのに冷たい風が山から吹き下りてくる。
空き瓶の中で飛び回っているハエの羽音に似たような音(フランシスコとヤシンタの父親マルト氏の証言)。

1917年8月13日(牧童たちは妨害に合い連れ去られる。従って出現は無かった)
出現があると思って集まった推定1万8千人の大群集。
出現の時刻になると一点の雲もない空に、いつものように稲妻に伴われた雷鳴が聞える。
いつもの光につづき、柊の木の上に数分間、白い雲が漂う。
人々の顔、着物、木々、地面の色が変化する。群集はこの不思議に満足して帰る。

1917年8月15日午後4時頃 天国からの貴婦人(日付は記憶の中ではっきりしていない)
第三者は、たまたま居合わせたフランシスコとヤシンタ2人の兄ヨハネのみ。
出現前の大気の変化、急速な気温の低下、太陽のかげりが始まる。
3人のうち、ヤシンタがいなかったのでヨハネが呼びにいく。出現はそのあと。

1917年9月13日 天国からの貴婦人
推定2~3万人の大群集。
大気の変化、急速な気温低下、星影さえも見えるほどの太陽のかげり。
ひとむらの白い雲が、柊の木と3人の牧童を包んでしまう。
虹色にきらめく花びらか地面に落ちる前に溶けてしまう雪片のようなもの(この現象は、その後数万の巡礼者の前でしばしば繰り返された)。
出現の始めに東から西に、終わりに反対方向へ、ゆっくり堂々と移動する光る卵形の球体(これをポルトガル国民は「聖母の輝く飛行機」と呼んだ)。

1917年10月13日 ロザリオの聖母
推定7万人以上の大群集。
出現の間、雨が降りしきっていたが、3度、香の煙に似た小さい白いひとむらの雲が子どもたちの周囲にわき出て、やがて空中5、6メートルの高さまで舞いあがった。
出現の終わりに、〔太陽の奇跡〕。ポルトガル新聞オー・ディア・ジョールノ掲載記事より。

「午后一時頃、雨はピタリとやみ、空を覆っていた雲は散り失せて、太陽が薄灰色の光を放って次第に暗くなるように見えた。われわれは有明けの月を見るように、ベールに包まれたこの珍らしい太陽を見詰めていた。すると真珠草の灰色の光線が銀の円盤のようにかわり、次第に大きくなって、突然太陽が雲の間から輝きはじめた。そして、忽(たちま)ち灰色の光の円盤の中で火の車のように回転しはじめ、幾百条とも知れない光線が四方に放たれ、回転するに従って光線の色が変化した。雲も、地も、木も、岩も出現を見る三牧童も、これを見守る大群集も黄、赤、青、紫と次ぎ次ぎに色どられて行った。太陽が一時回転を停止すると、再びさらに強い光を放って踊りはじめた。そのうちに、また回転を停止したが、こんどは如何なる仕掛け花火の名人も想像することが出来ない不思議な花火を散らしながら、三度運動を開始した。大衆が受けたこの印象をなんと表現できようか? 観衆はただ恍惚として動かず、唾ずをのんでこの光景に見入っていた。すると、群集は太陽が大空を離れてジグザグに跳ね返りながら、自分たちの頭上に飛びこんで来るのを見た。
『ああ!』と恐怖の叫びが一斉に起こった。すべてのものが聖書の予言にある世の終わりの光景を思い出した(編者:マタイ24:29、ヨハネ黙示12:1、同16:8等)のであろう。
『奇跡だ!奇跡だ!』『私は神を信じます』『主よ、憐んで下さい』『めでたし聖寵充ち満てるマリアよ』と口々に叫ぶ声は壮烈たるものであった。
 太陽の回転は中止時間も加えて十分間ぐらいだった。参加者は例外なしに一人残らずこの回転を目撃した。その中には信者もいれば信者でない人もいた。学者も、新聞記者も、自由主義者もたくさんいた。そして驚いたことには、数分前に雨でぬれ、泥にまみれた着物がすっかり乾いていたことだった。」

 後年、教会がこの奇跡について調査したとき、コーワ・ダ・イリアを去る五キロ以上の地にいた者までが、何の予告もなく、なんの暗示や集団的錯覚の影響をも受けないで、太陽の回転を見たことが明らかにされた。
(〔太陽の奇跡〕は前記参考文献『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示』から抜粋)。

1929年6月13日午後11時~12時頃 ファティマの聖母
修道院の聖堂で、ルシア助修女1人だったから、第三者はいなかった。

1938年1月25日午後8時45分~26日午前1時15分 ヨーロッパの空を覆う不思議な光
「1938年(昭和13年)1月26日の諸新聞は、(略)西ヨーロッパ全域にわたって確認された異常な極光(オーロラ)に関する電文を掲載した。
 その時刻に関してはどの新聞も一致していたが、その表現法にはいろいろあった。
『深紅から紫に変わった微光(びこう)』――スイスのフリブール市。『血潮の光を放射する噴火口上空のように火に燃える空』――アルプス地方。同地方のブリアンソン市では、配達人は夜半ランプなしで郵便物の配達ができた。『赤味を帯びた大きな虹のような極光で、地平線は大火災の火焔を反射しているようだった。この現象は白味を帯びた微光に変わったがやがてまたはじめの色にもどった。』――ベルギー沿岸地方。
 同様な記事は、ババリア地方、オーストリア、ハンガリア、スイス、ノルウェー、ロンドン、ローマ、ロンバルジア、ギリシャ、ポーランドなどの新聞にも掲載されていた。
 某新聞はこの現象に科学的注釈を試みたが、やがて沙汰やみになってしまった。」
(この項は、前記参考文献『ファチマの牧童』巻末附録から抜粋。聖母の予言との関連は、前項<その内容と要請>の1917年7月13日〔ファティマ第2の秘密〕参照)。

<その祈り>

1916年春 平和の天使
神への祈り。
「ああ、神さま、私はあなたを信じ、礼拝し、希望し、愛します。私はあなたを信じないもの、礼拝しないもの、希望しないもの、愛さないもののために、ゆるしをおねがいします」。

1916年初秋 一位の天使
侮辱を償い罪人の改心を願う祈り。
「父と子と聖霊にましますいとも聖き神よ、私たちは、心の底からあなたを礼拝し、イエズス・キリストが全世界の聖櫃の内でお受けになる侮辱を償うために、イエズス・キリストご自身の聖いおん体とおん血、ご霊魂、神性をあなたに捧げます。イエズスのみ心の限りないおん功徳と、マリアの汚れなきみ心のおん取り次ぎによって、不幸な罪人に改心の恵みをお与え下さい」。

1917年7月13日 天国からの貴婦人
苦行するときの祈り。
「イエズスよ、私はあなたを愛しますから、罪人の改心のため、聖母マリアのみ心に加えた侮辱を償うために、この犠牲を捧げます」。
ロザリオの各連のあとに付け加える祈り(ファティマの祈りとして知られる)。
「ああイエズスよ、私たちの罪を許し、地獄の火から逃れさせて下さい。すべての霊魂を天国へ導き、殊にあなたの憐みをもっとも必要とする霊魂をお助け下さい」。

1919年7月31日 ルシアの父親の死
ルシアの自分の部屋での祈り。
「我が神よ、我が神よ。主よ、あなたは私のために、あんなにたくさんの苦しみをあなたの倉に貯えておられることを想像もしませんでした。けれども私は、あなたの愛とマリア様の汚れないみ心のため、またパパ様(編者:教皇のこと)と罪人の改心のために、それらの苦しみをすべて献げます」。

1948年 ジョン・エム・アッフェルト氏に乞われてルシアが作成した祈り。
「ファチマでロシアの改宗と全人類に平和をもたらすことを約束なさった親愛なる元后、おん母聖マリアよ、私は、自分自身の罪と全世界の罪の償いとして、おごそかに次の約束をいたします。1.私の日常の務めを果たすことによって、毎日の犠牲を捧げること。2.主イエズスの奥義を黙想しながら、毎日ロザリオを唱えること。3.この約束の宣言として、また、私があなたのみ心に捧げられたしるしとして、カルメルのスカプラリオ(編者註)を身につけること。私は度々、特に誘惑に出合う時、この約束を更新します」。
(編者註:カルメルのスカプラリオ=カルメル修道会が一般の信徒に与える茶色い布切れ。一定の儀式と条件の下に、修道服の代用として、これを首からかけて常に身に着けている信者を保護する。1251年頃、カルメル会総長聖シモン・ストックに聖母が出現され、このスカプラリオを身につけて臨終を迎えるすべての人に、永遠の救いを約束された。小冊子『カルメル山の聖母 スカプラリオを理解するために』男子跣足カルメル会訳、ドン・ボスコ社1991年9月5版参照)。

初めて聖体拝領したときのルシアの祈り(6歳)。
「主よ、私を聖人にして下さい。あなたのためにだけ私の心を清く保って下さい」。

ルシアが好んだ射祷。
「我が神よ、私に下さったすべての恵みの感謝として、私はあなたを愛します」。

ヤシンタが好んだ射祷。
「わが主イエズスよ、私はあなたを愛します」。
「聖マリアの美しいみ心よ、わたしのたすかりとなってください」。

(<その祈り>は、前記参考文献『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示』から抜粋)。

<その信心>

1917年6月13日 天国からの貴婦人
牧童たちは、自分たちを天国へ連れて行くように願いました。聖母は、仰せられました。
「間もなく、ヤチンタとフランシスコを迎えに来ますが、あなた(編者:ルシア)は、もっと永くここに居なければなりません。イエズスは、私が、人々に敬愛されるようにあなたを用いたいです。イエズスは、この世で私の汚れなきみ心の信心を制定されたいのです。この信心を守る人に、私は救いを与える約束をし、そして、霊魂は私の手から神の玉座を飾るようにおかれる花ですから、イエズスに愛されます」。

ルシア「では私は、ここに一人でいるでしょうか」と、悲しんで言いました。
聖母「いいえ、わが娘よ、いつまでもあなたを見捨てる事はないでしょう。私の汚れなき心は、あなたの避難所と、神へ導く道となるでしょう」。

1917年7月13日 天国からの貴婦人
「罪びとを救うために、神は、わたしの汚れない心に対する信心を世に定着させるよう望んでおられます」。
「わたしの汚れない心にロシアを奉献することと、償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするよう、わたしはお願いにまいります」。

1925年12月10日 幼いイエズスと聖母マリア
幼いイエズス「棘で覆われているあなた方のおん母のみ心に同情しなさい。恩知らずの人々は、み心を絶えまなく貫き、棘をとり除くために、償いをする人は居りません」。
聖母「わが娘よ、人々が絶えず忘恩と侮辱をもって、私の心を貫く棘に包まれた私の心をごらんなさい。少なくとも、あなたは私を慰めるように努めて下さい。そして、私は五ヵ月続いた初土曜日に、罪の許しの秘跡を受けて、聖体を拝領し、償いとして、ロザリオ五連唱え、十五分間ロザリオの玄義を黙想するすべての人を、臨終の時、私自身がそばに行って、助け、救う約束をします」。

1926年2月15日 幼いイエズス
幼いイエズスは、ルシアに聖母への信心を広めたかどうかを尋ねられる。
ルシア「院長は、信心を広める用意をしていますが、一人では何も実行できません」。
イエズス「あなたの院長が一人で何も出来ないのは当り前です。しかし、私の恵みによって、すべてをすることが出来ます」。

ルシアは、初土曜日の信心についてある人から頼まれ、土曜日にゆるしの秘跡を受けられない場合8日間中に告解すれば有効かどうか尋ねる。
イエズス「もっと長くてもよろしい。けれども、聖体を拝領する時、神の恩恵と愛を持ち、マリアの汚れなきみ心に償いを捧げる意向がなければなりません」。
ルシア「わがイエズスよ、この意向を忘れる人はどうなるのでしょう」。
イエズス「彼らは、最初の時にその意向を捧げればよいのです」。

1927年12月17日 聖櫃のイエズス
ルシアは、ファティマの秘密の中に含まれているマリアの汚れなきみ心の信心について、どんな方法でどの程度それを人々に打ち明けられるかを、聖櫃の前で祈った。
イエズス「わが娘よ、彼らがあなたに尋ねたことを書きなさい。母マリアの汚れなき心の信心について、ファチマであなたに知らせたすべての事を書きなさい。そして、残っている秘密は沈黙を守り続けなさい」。

1929年6月13日 言葉に表現できない三位一体の奥義の示現、ファティマの聖母
聖母「ロシアを私の汚れなき心に捧げる時が来たので、パパ様が、全世界の司教団と一致して、この奉献をしてほしいのです。これによって、私はロシアを救う約束をします。私に反する罪のために、神の正義によって罰せられる多くの霊魂がおります。それで、私は償いを願いに来ました。この意向のために、自分を犠牲にして下さい。そして祈って下さい」。
後に、内的な交わりによって、主はルシアにこう仰せられた。
イエズス「彼らは、私の要求に注意したくないのです。フランスの王のように、あとで後悔するでしょう(原註)。けれども、その時はすでにおそいでしょう。なぜなら、ロシアは全世界に自分の謬説を広めてしまうでしょうから。そして、ロシアは戦争を起こし、教会を迫害して、教皇はたくさん苦しむでしょう」。

(原註:「フランスの王のように、彼らは後悔するでしょう」とは、次のことである。
 1689年、聖マルガリタ・マリア・アラコクは、デイジョン院長を通して、フランス国王ルイ14世に、宮殿にイエズスのみ心の聖堂を建て、全国をみ心に捧げるように願った。そして、この奉献によって、フランス王家の上に、多くの恵みが注がれる約束をした。聖マルガリタのメッセージは政治的事情で達成されなかった。
 104年後、み心の信心がひじょうに広まったので、王室は、このメッセージを実行しようと望んだが、1792年、フランス大革命が勃発して、後継者ルイ16世は逮捕された。
 時はすでにおそく、王室とフランスをみ心に捧げることができなかった。そして、1793年6月21日、ルイ16世は革命者によって処刑された)。
(編者:ところで、もし仮に、現状のままでロシアが世界に先駆けて自ら“聖母の汚れなき御心”に自国を荘厳に奉献することにでもなれば、ヴァチカンもローマ・カトリック教世界も大恥をかくことになるのではないでしょうか? 2009年6月現在、ロシアはまだヴァチカンや世界各国の司教たちによって“聖母の汚れなき御心”へ奉献されてはいません。1984年3月の教皇ヨハネ・パウロ2世による奉献は全世界の奉献であり、ロシアの国名を明言されるものではありませんでした。司祭のマリア運動公式パンフレット『聖母から司祭へ』巻末掲載の教皇ヨハネ・パウロ2世による奉献文参照)。

1930年5月 ゴンザレス神父の質問状とそれへの回答

1.5回の初土曜日の信心について。聖母マリアは、いつ、どこで、どのようにしてお話しになったか。すなわち、もし、憶えているならば、その日付、どんな事情で、どんな方法で啓示されましたか?
(回答)
何時=1925年12月10日。
方法=主イエズスは、茨の冠にかこまれた汚れなきみ心の聖母マリアと共に、お現れになって償いを求められました。
場所=ポンテ・ベトラの修道院。第1の出現は私の修室で、第2回目は私が働いていた果樹園の門の所で。

2.この信心を果たすために、どんな条件が必要ですか?
(回答)
条件=5ヶ月間続けて初土曜日に、聖体を拝領すること。ロザリオを唱えること。15分間聖母マリアのもとで、ロザリオの玄義を黙想すること。罪のゆるしの秘跡を受けることです。神の恩恵をもっているなら、別の日に、罪のゆるしの秘跡を受けても支障ありません。

3.この信心を1回でも行なった人にどんな恵みが授けられますか?
(回答)
約束された恵み=この信心を行なう人は、臨終の時、聖母は救いに必要なすべての恵みをもって、彼を助けます。

4.なぜ、5回の初土曜日ですか? 9回、あるいは、聖母の7つの苦しみへの崇敬のために、7回の初土曜日ではいけませんか?
(回答)
なぜ5回の初土曜日か?=私は、1930年5月29日と30日の間にかけて、聖堂で第4と第5の質問の内容について、主イエズスに話しかけた時、神の現存にまず深く浸ったと感じました。それが間違いでないなら、次のことを啓示されました。
「我が娘よ、理由は簡単です。なぜなら、人々は、五つの方法でマリアのみ心に、侮辱を与えますから。1、聖マリアの汚れなきおん宿りを認めない。2、終生の処女性を認めない。3、神の母、人類の母としての人格を認めない。4、聖母に対する子供達の信心を妨げる。5、聖母のご絵、ご像を冒瀆する。
我が娘よ、それゆえ、私のおん母の汚れなきみ心に償いの務めをするように願いに来ました。この償いをもって、おん母を苦しめ、侮辱する人々の上に、罪の許しの恵みが注がれるように、あなたは心を尽くして、絶えず祈りと犠牲を献げて下さい」。

5.もし、ある人がこのすべての条件を土曜日に果たすことができないなら、日曜日に果たすことができますか? 農民は教会が遠いので、初土曜日の信心を果たすのが困難です。
(回答)
「初土曜日に、このすべての条件を果たすことが出来ないなら、日曜日にすることが出来ますか?」。
「この信心を、正当な理由で初土曜日行なうことが出来ない場合には、司祭の許しによって、次の日曜日に行なうことが出来ます」。

6.ロシアの救いについて、何が要求されますか?
(回答)
私の間違いでなければ、私たちのよい主は次のことを約束なさいました。すなわち、教皇様が公に償いをして、ロシアをイエズスとマリアのみ心に奉献するなら、ロシアの迫害は終わるでしょう。教皇様は、全世界のカトリック司教団と共に、この奉献をしなければなりません。そして、迫害が終わったら、聖マリアの汚れなきみ心への信心を広めるように、イエズスはすすめられました。

1948年 ジョン・エム・アッフェルトとの面接

質問 ロザリオを唱えることは、ファチマの聖母の第1の大切な要求ですか?
 答 いいえ。
質問 それでは、何を一番望まれますか?
 答 犠牲です。
質問 犠牲とは、どういう意味ですか?
 答 犠牲とは、日常の務めを忠実に果たして献げることです。
質問 すると、ロザリオの祈りは自由ではありませんか?
 答 ロザリオの祈りは、私たちの日常の務めを忠実に果たすように力づけますから、大切なものです。
質問 初土曜日の信心は大切ですか?
 答 はい、大切です。なぜなら、初土曜日の信心を行なう時、人々は、毎月自分自身を罪から清め、日常の務めをよく果たす決心を更新しますから。
質問 聖母の願いとして、日常の生活の務めを果たしながら、み心への献げ物とロザリオの祈りを唱えるなど、これらをふくめた簡単な祈りを作ることができますか?
 答 (ルシアはすぐ祈りを書き上げた。前項<その祈り>の1948年参照)。

(<その信心>は、大部分を前記参考文献『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示』から抜粋し、他の参考文献も適宜参考にしました)。

(編者:このブログは営利目的ではありません。主と聖母への奉仕活動です。どなたか英語に訳して広めていただければ幸いです。もちろん著作権は放棄しております)。  

Posted by tayori at 07:42旅行資料

2010年03月28日

Our Lady of Lourdes


ある出来事について検討するとき、それに関わった人物や時代など、いろいろな角度から眺めることが可能ですが、ここでは出現という中心課題のみに焦点をしぼって出来るだけ簡単にまとめてみたいと思います。(参考文献の文脈の雰囲気を出来るだけ残すため、登場人物の氏名や地名、漢字の送り仮名等の表記の統一を敢えて避けました。文中の太字は編者)。

<その概観> <その内容と要請> <その客観的現象>

《参考文献》

ルネ・ローランタン著『ベルナデッタ』ミルサン、五十嵐茂雄共訳(ドン・ボスコ社1982年4月3版)。

アレクシー・カレル著『ルルドへの旅・祈り』中村弓子訳(春秋社1988年4月初版4刷)。

志村辰弥編著『ルルドの出来事』(中央出版社1989年4月改訂初版)。

竹下節子著『奇跡の泉ルルドへ』(NTT出版1996年1月初版)。


<その概観>

1. 出現の場所

フランスのルルドという村。

2.出現を受けた人

もと水車小屋の少女1人(乳母の家の牧童の仕事をやめて1ヶ月に満たず)。
ベルナルド・マリー・スビルー(愛称ベルナデッタ)。
(1844年1月7日生、1879年4月16日帰天。列聖)。
聖母の姿を見て、その声を聞き、対話した。

3.出現の年月日、地名、出現者

年月日        地名             出現者

1858年2月11日  マッサビエルの洞窟のそば   あれ。何か婦人の形の白いもの。
 同年 2月14日   同上             同上
 同年 2月18日   同上             同上
 同年 2月19日   同上             同上
 同年 2月20日   同上             同上
 同年 2月21日   同上             同上
 同年 2月23日   同上             同上
 同年 2月24日   同上             同上
 同年 2月25日   同上             同上
 同年 2月26日  (参考文献により出現があったかなかったか異論あり)
 同年 2月27日   同前             同前
 同年 2月28日   同上             同上
 同年 3月 1日   同上             同上
 同年 3月 2日   同上             同上
 同年 3月 3日   同上             同上
 同年 3月 4日   同上             同上
 同年 3月25日   同上             同上(無原罪の宿り)
 同年 4月 7日   同上             同上
 同年 7月16日   同上             同上


<その内容と要請>

1858年2月11日 お昼ごろ
ほほえみ。
出現者は十字を切り、ベルナデッタの祈りにあわせて、沈黙のままロザリオの珠を繰る。
そばに来るように合図をするが、ベルナデッタがそうしなかったら見えなくなる。

1858年2月14日 日曜の荘厳ミサの後
ロザリオの二連目で、「いる! ロザリオを手に持って、こっちを見ている」。
ベルナデッタは「もしあなたが神様からのものなら、どうぞここにいてください。そうでなければお帰りください」と言いつつ、聖水をふりかける。
「私が聖水をふりかければかけるほど、あの方はほほえんでいました。私は聖水が全部なくなるまでそのようにしてふりかけていました」。
(編者:そのあとの脱魂状態の記述から、対話があったと思われるが内容は不明)。

1858年2月18日 早ミサの後
ロザリオの祈りを始めてすぐ、小さい声で「いるよ!」。
ロザリオの祈りの後、ベルナデッタは紙とペンを持って洞窟に近づいてゆき、「どうぞお名前を書いてください」と言う。「その必要はありません」という答。
15日間続けてここへ来るように要請。ベルナデッタは承諾。
「あなたがこの世で幸せになるかどうかは約束しないけれど、もうひとつの世での幸せを約束します」。

1858年2月19日
「来てくれてありがとう」。
ベルナデッタ「私が約束を守ったことをおほめになって、また後に知らせることがあるとおっしゃいました。きょうは、(略)地の底から恐ろしい声が聞えてきました。その大きなことといったら、たとえようがありません。なにかがたくさん集ってたがいに叫びあい、激しく争っているようでした。そして誰かが大声をあげて『逃げろ、逃げろ』と叫びました。そのとたん、貴婦人が、ちょっと眼をあげて、きっと彼方をおにらみになったら、その騒ぎはぴったりとやんで、まるで大風のあとのようでした」。

1858年2月20日 午前6時ごろ
出現者はベルナデッタのために1つの祈りを教える。
母にその祈りの内容を問われても、許されないからとベルナデッタは答えるのを拒否。

1858年2月21日
ベルナデッタ「私を見ていらっしゃいましたが、そっと瞳を動かして、私の頭越しに向うの方をごらんになりました。そしてまた私をごらんなさいましたが、なぜか、そのときのお顔はほんとうに悲しそうでした。それで、私も悲しくなって、なぜそんなにお悲しみになりますか、いったい私はどうすればよいのでしょうかとお尋ねしました。すると、罪人のためによく祈りなさいとおっしゃいました。そして間もなく、愛に満ち溢れた穏かなお顔になりましたので私も安心いたしました」。

1858年2月23日 午前6時すぎ
ベルナデッタ「今日は私だけに限る三つの秘密を知らせて下さいました。これは告白する神父さまにも打明けることが出来ません」。
(編者:21世紀の現代において、「三つの秘密」からすぐに連想されるのはファティマのそれである。ルルドの場合、ベルナデッタ個人に関わる私的な内容だったと考えられているが、「三つの秘密」という言葉、またそのこと自体がファティマへの伏線になっているように感じられてならない。ローマ法王にきかれたならその秘密を明かすかどうかと問われた時は、「考えてみる」とベルナデッタは答えている)。

1858年2月24日 午前6時頃
「償いを! 償いを! 償いを!」。
「罪びとの回心のために神様に祈りなさい」。
「罪びとのために償いの心をもって地面に接吻しなさい」。

1858年2月25日 早朝
「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」。
ベルナデッタがガブ川のほうへ行くと、“あれ”は指差して洞窟の岩の下へ行くようにと合図。
土を掘ると泥水がにじみ出す。あんまり汚いので3回は捨ててしまい、4回目にやっと飲む。
洞窟のなかのネコノメ草の葉を「罪びとのため」摘んで食べる。

1858年2月26日 午前6時頃
ベルナデッタは、ロザリオを祈り、償いの業をし、泉で顔を洗い、群集に地に接吻するようにすすめる。
「悲しそうなお声で、罪人のために祈りなさい、罪人の罪を償うために苦業をしなさい、と仰せられました。私は頭を下げてそれをお受けすると、こんどは、跪いたまま地に接吻しながら洞窟の方へ進むようにと仰せられ、それをするのは疲れ過ぎはしないかと仰せられたので、私は頭を振って『いいえ』とお答えいたしました」。
(引用箇所は志村辰弥の記述による。ルネ・ローランタンでは、この日、ベルナデッタは洞窟へ行き、償いの業などいろいろ努力するが出現はなかったことになっている。従って、前記参考文献において、出現回数は『ベルナデッタ』では18回、『ルルドの出来事』では19回。竹下節子「正確に何日には何が言われたかということには異論がある。ベルナデットは日誌をつけたわけではなく日を追って記憶するという観念がなかった」)。

1858年2月27日 朝
ベルナデッタは、膝で歩いて地面に接吻。
「この地に聖堂を建てるように神父たちに伝えなさい」
(編者:『ルルドの出来事』では、この日に最初の聖堂建立の要請)。

1858年2月28日 午前6時すぎ
ベルナデッタは、償いの業。
(編者:脱魂状態の記述から、対話があったと思われるが内容は不明)。

1858年3月1日
ベルナデッタは知人に頼まれていたので、その人のロザリオを取出して十字架の印をしようとしたが、「それは違います。あなたのロザリオではありません」と咎められる。びっくりして自分のロザリオを取り出し、差し出して「これですか?」と聞くと、うなずかれる。
群集はいっしょに聖母に祈ろうと勧めたと解釈し、以後ロザリオを祈るようになる。
(編者:デジラ神父によるベルナデッタの脱魂状態の描写から、さらに対話があったと思われるが内容は不明)。

1858年3月2日
「神父さまのところへ行って、ここで行列をして欲しい、聖堂を建てて欲しいという希望を伝えなさい」。
出現の後、ベルナデッタは司祭館へ行く。
あいにく神父の機嫌が悪く、ベルナデッタはけんもほろろに扱われる。
神父にベルナデッタは、出現者の名前を聞くように言われる。

1858年3月3日 午前7時、1度目に行ったときには出現なし、正午ごろに出現
ベルナデッタ「神父さまからのお返事を申上げた後で、今朝、なぜお現われにならなかったのかお尋ねいたしました。(略)『貴女の様子を見ようとして集った人の中で、猥りがましい振舞をして洞窟を汚した者があったからです』と仰せられたので、(略)悲しい思いをいたしました」。それらの振る舞いを見ていた人は、なるほどと驚いていた。
出現の後、夕方、ベルナデッタは主任司祭に会いに司祭館へ行く。
「神父様、あのお方は相変わらず聖堂を建てて欲しいと言っています」。
主任司祭が「名前を聞いたのか?」と尋ねると、
「はい、神父様、聞いたけれどもあのお方はほほえむだけで、返事をなさいません」。
神父は笑いながら、「もしお前の言うそのご婦人が、ほんとうに聖堂を建てて欲しいと言われるなら、まず名前を教えてもらいたい。そして洞窟のあたりのバラに花を咲かせてくれれば、私も信じよう。聖堂も建てよう」と言う。
(志村辰弥「この日のご出現は、朝でなかったから、多くの人に知られていない。ルルドの事件を最初に書いたラッセルも、それを書き落している。(略)このご出現については、小学校長クラレンスをはじめ、ドミニック・カズナーブや彼女の従姉のジャンヌ・ヴェーデル、叔父のサジュー等が確認している」)。

1858年3月4日 午前6時半のミサの後、7時5分
ロザリオの祈りの第2連第3の天使祝詞から、ベルナデッタは脱魂状態に入る。
30分後にベルナデッタは洞窟の中に入っていき、出現者と対話。唇が動いているが声は聞えない。その場所にいたのは2分間ぐらい。
「名前をお尋ねしましたが、ほほえむだけでした。バラの花を咲かせてくださいとお願いしたら、やっぱりほほえむだけでした。でも、こんどもまた聖堂を建てて欲しいと言われました」。
(編者:この日のベルナデッタの様子について、その動作や脱魂状態や顔の表情など詳細な記録が残されている。その時間の長さや表情の変化の描写からみて、かなりの対話が行なわれたと思われるが、内容は不明)。

1858年3月25日 午前5時すぎ
ロザリオの祈りの後、二度三度と名前を教えてくれるように頼むベルナデッタ。
四度目に尋ねたときに、「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ(私は無原罪のやどりである)」と答えられる。
ベルナデッタは、忘れないようにその言葉を口の中で繰り返しながら、司祭館へ報告に行く。

1858年4月7日 早朝
(編者:ドズース医師によるベルナデッタの脱魂状態についての証言から、対話があったと思われるが内容は不明)。

1858年7月16日 夕方、洞窟からはなれた川の向かい側で
後に「ほほ笑みの御出現」と呼ばれる。
ロザリオを祈り始めたとたんに脱魂状態。
「私には、柵もガブ川も何も見えなくなり、前の時と全く同じように洞窟の中にいるような気がしていました。聖母マリア様を見るだけでした」。

(竹下節子によれば、ご出現についてベルナデッタは全部で7篇の手記を残している。それらの日本語訳の刊行が切に俟たれる)。

<その客観的現象>

ここで言う客観的現象とは、出現を直接的に受けたベルナデッタ以外の第三者(うわさを聞いて集まってきた群集等)によって認められた、通常ではない現象のことを言います。

1858年2月11日 第三者は2人
妹のトワネットと友人のジャンヌ・アバディーがいたが、先に川を渡って洞窟のそばで薪を拾っていた。
二人とも、ベルナデッタがひざまずいて祈っている姿には気づいていたが、出現があったことには気づかなかった。

1858年2月14日 トワネット、学校の女の子たち十数人、サヴィ水車小屋の親子
ベルナデッタの脱魂状態に、全員気がつき驚く。「マリーは姉の変った様子を見て、びっくりぎょうてんし、家に走り帰って腰掛に倒れかかったまま泣出してしまった」。

1858年2月18日 マリア会のミエ夫人とアントワネット・ペレー婦人
1858年2月19日 母ルイーズと伯母ベルナルドほか7~8名
これ(ベルナデッタの脱魂状態)を見たルイズとベルナルドは、いまさらのように驚いて「ああ美しい!」と感嘆した。そしてルイズは気違のようになって「ああ神さま! どうぞ娘を死なせないでください」と祈っていた。

1858年2月20日 推定30人
前方にいたルイズが大声をあげて叫んだ。「ああ、私は頭が変になっているんじゃないかしら、あれが私のほんとうの子だろうか!」と。

1858年2月21日 推定100人
ルルドの医師ドズー博士はじめて出現に立会い、脱魂状態を観察。
「(略)やがて彼女の顔は、傍にいた人たちの注意を引くほど急に変化した。彼女はもう出現者に会っているようすだった。(略)余は一心に彼女の動作を注視した。手を取って脈搏を調べたが異状はなかったし、また呼吸も平常でなんの変りもなかった。そして全体の状況から見て、なんの神経的症状をも認められなかった。彼女はすぐ立上って洞穴のまえに進んだが、今まで喜びに溢れていた顔は、急に憂いに変って、両眼からは涙が流れ出た。余はこの急激な変化には驚いた。(略)余『私がおまえの手を取って、脈を調べたことを覚えているか?』ベルナデッタ『いいえ、少しも覚えていません』」。ドズー博士は、出現の現状と、ベルナデッタの率直な秩序正しい返答によって、この事件は簡単に解決出来るものでないと思った。

1858年2月23日 推定150人
ルルドの税務管理局長ジャン・バプチスト・エストラード、はじめて脱魂状態を観察。
「私はボルドーの劇場に行ったとき、有名な女優のラッシェルを見たが、これはまことにすばらしい女性だった。しかしその彼女もベルナデッタとは比べものにならない。間違いなくこの女の子の前には超自然的なものが現われているのだ」。

1858年2月24日 推定300人
1858年2月25日 推定350人
ときどきベルナデッタは(24日同様)地面に接吻する。でこぼこで石の多いそんなところを、(ひざまずいたまま)軽々と動いて行けるのは不思議だった。

午後になって、ある人々がまた洞窟のほうへ行った。この人たちは、ベルナデッタが掘って泥水を飲んだあとにできた小さな穴を見ている。
エレオノール・ペラールという婦人がこの穴の中に棒を挿し込んだ。すると水の流れのようなせせらぎの音が聞える。
水は量を増してこんこんと湧いて来た。色も次第に澄んできて、汲めば汲むほどきれいになってくる。こうして泥水は清水に変わった。
その日のうちに、水をビンに詰めて二人の人が持ち帰った。その一人は病気の自分の父親に飲ませようと考えたのだ。もう一人はタバコ屋の息子であった。彼は片方の目を病んでいたが、何日か経つと片目を隠していた眼帯が取れている。水を汲むところを見ていた助任司祭ペンヌ神父の妹が、彼の眼帯がなくなったことに気づいた。

1858年2月26日 推定600人
1858年2月27日 (不明)
1858年2月28日 推定1150人
ルイ・ブリエット、石工。20年前に、採石場での爆発事故で、岩の破片により右眼を損傷。
この日、娘に、湧き出した泉の水を汲んでくるように頼む。その水で右眼を洗うと、視力が恢復。喜んで続けて眼を洗うと、みるみるうちに物の形をはっきり認められるようになり、20年来の病が完全に癒やされた。
一両日後、彼は面倒を見てもらっていたドズー博士に報告。その証言が残っている。

1858年3月1日 推定1500人
休暇で隣村に帰宅していたデジラ神父による、ベルナデッタの脱魂状態の描写。
「ベルナデッタの笑顔は、全く表現できないほど美しかった。どんな上手な絵かき、どんなに巧みな俳優でも、その魅力、その恵みのさまを描写することはできないだろう。それは到底想像もできないものである。特に私の心を打ったのは、その顔に次々と現われてくる喜びと悲しみの表情であった。次々というのは、稲妻のような速さでその顔が変わるからである。しかし不自然なことは一つもなかった。私は子供が洞窟へ行く時の姿を見た。そして一生懸命その態度を注視していた。しかし道の途中でのベルナデッタと、出現の時のベルナデッタとは、あまりにも異なっていた。そのとき、この場所には深い尊敬と深い沈黙、潜心のふんい気があった。ああ、どんなにあそこにいた時はよかったことだろう。私は天国の門の前にいるかのような気がしたのだ」。

カトリーヌ・ラタピ、妊娠9ヶ月の女性。1856年10月、木に登って豚のためドングリの実を落としていて墜落して腕を脱臼。右手の指は曲がったままで動かず、感覚もない。長いあいだ医者通いをしても治らず、手仕事が出来ないので生活が困窮していた。
この日、出現の後、一人で洞窟の泉へ行って動かなくなっていた手を水に浸すと、体中に快い感覚が伝わり、手がやわらかくなるのをおぼえた。それと同時に曲がっていた指は、突然もとの通り動くようになった。彼女が感謝の祈りをしていると陣痛が始まった。「おお、今私を治してくださった聖母よ、どうぞ私が家まで無事に帰れるようお守りください」と祈りながら、二人の小さな子供の手をひいて7キロはなれた自分の村まで歩いた。やっと家にたどり着くと、すぐベッドに横たわり、ほとんど苦痛もなしに子供を生んだ。ジャン・バプティストと呼ばれるこの子は、後に司祭となる(カトリック教会公認の奇跡的治癒第1号)。

1858年3月2日 推定1650人
ジュスタン・ブーオール(1)、骨軟化症で生後2年を過ぎてもゆりかごの中。腰掛けることも立つこともできない。発熱性の消耗性疾患にかかり、食欲減退のためはなはだしく衰弱。医師ペルユ博士も匙を投げ、隣のゴゾー婦人も、秘かにジュスタンの喪服を作っていたほど。
この日の午後、刻々と死に近づいていくジュスタンを見ていた母のクロワジーヌは、突然「洞窟のマリアさまにお願いしよう」と叫ぶや、愛児を前掛に包み、狂気のようにマッサビエルの洞窟へ走った。夕方5時頃だった。洞窟の前には四五十名の人々が祈っていた。彼女は平伏してしばらく祈った後、自分と子供に十字架の印をして、子供を裸体のまま氷のような水の中に浸した。「あっ、あの女は発狂している!」見ていた者は、思わず叫んだ。一人の婦人は見かねて「あなたはそんなことをしたら、子供を殺してしまう」と止めようとした。すると彼女は「いいえ、かまわないで下さい。この子は家に寝かせておいても、どうせ死んでしまうはずです。私は、私の力の限りを尽せばそれでいいのです。あとは、神さまと聖母マリアさまがお助け下さるでしょう」と見向もしなかった。こうして、15分間も子供を水に浸したかと思うと、また前掛に包んで大急ぎで家へ帰った。その間、子供は全く死んだように見えた。ドズー博士が現場に在って、この事実を目撃した。

1858年3月3日 推定3000人
ルルドの小学校長クラレンスの証言。
「今朝、貴婦人が現われないことについて、ベルナデッタの答弁を聞いたが、実に正直そのものである。彼女が、もし嘘を言うことに慣れていれば、あのような場合には嘘をいわずにはいられまい。また、反対者のいうように、精神が狂っており妄想に捉われているならば、大勢の人々に囲まれてとやかくいわれたら、ますます烈しく狂い、妄想に陥って、人並の人間とは思えないであろう。ところが、事実はこれに反して、少しもそのような様子が見えないばかりでなく、言葉といい、態度といい、謙遜で平穏であったことは、識者の注目すべき点で、冷静に判断しなければならない」。

ジュスタン・ブーオール(2)。
(この日の)朝になるとジュスタンはぱっちり眼を覚ました。頬にはやや紅色さえさしている。そしてにっこり母の顔を見た様子は、昨日まで死のあいだをさまよった病児とは、全く考えられなかった。それからしばらくして、ジュスタンはしきりに乳を求めるようになった。クロワジーヌは大喜びで、彼を膝に抱き上げて、乳房をふくませた。おなかがととのうと、彼はまだ一度も歩いたことがないのに、急に立って歩き出そうとする様子なので、さすがのブーオール夫婦も腰を抜かすほど驚いた。そして、その日は、子供をだましだまし静かに一日休ませた。

1858年3月4日 推定8000人~20000人
この日のベルナデッタの脱魂状態について、従姉のジャンヌ・ヴェデール、ルルドの警察署長ジャコメ氏、町の助役等の詳細な記録が残されている。たとえば、いろいろな動作の回数「ほほえみが34回、洞窟のほうへのおじぎが24回」。30分後にベルナデッタは洞窟の中に入っていき、対話が始まる。唇は動くが、外には何の音も聞こえない。そこにいたのは2分間ぐらい。ジャンヌ・ヴェデールは、その間だけでほほえみが18回と記している。その後3分間、悲しげな顔。つぎに喜びにあふれ、丁寧におじぎをしてから自分の場所に戻り、15分間ロザリオの祈り。終わりにローソクを消して、一言も言わず帰り始める。

ジュスタン・ブーオール(3)。
ブーオール夫婦は子供が小康をえたので、家に休ませたまま、二人は働きに出掛た。然し、クロワジーヌは子供が気にかかったので、間もなく引返して、窓から家の中を覗いた。すると、ジュスタンはいつの間にか起き上って、室内を歩き廻り、椅子をころがして遊んでいるではないか。彼は完全に全快したのである。彼女は、気違のように家に飛び込み、わが子を固く抱きしめて、うれし泣きに泣いた。
その後、ジュスタンは二度と病気に悩むことなく、健やかに成長した。11年の後、ラッセルがこの事実を調査するためにブーオール家を訪れた時、クロワジーヌは、彼は病弱どころではなく、元気過ぎて遊びに熱中し、学校の勉強をしなくて困るとこぼしていた。
このことについて、病気をはじめから診ていたペルユ博士は医学上説明のつかぬ不思議なことだといい、ドズー博士も自然科学を超越したできごとであると証明した。

1858年3月25日 かなりの人々
エストラードとその妹は、ベルナデッタが「私は汚れなき孕りであります」と貴婦人の言葉を繰返しながら、貴婦人に真似て、合掌した両手を離して天を仰ぎ、更に合掌した様子の優美なのを見て、非常に感嘆し、ベルナデッタではなく、全く聖母マリアを仰ぎ見るような気がした。そして彼女の訪問は、天使の訪れのように思われて、とても嬉しかったと語った。
彼女(ベルナデッタ)は、この言葉を始めて聞いたので「コンセプション(孕り)」を「コンセプシウ」と間違えた。それを、エストラード兄妹が訂正すると、彼女は無邪気な顔をして「お嬢さま、インマクレ・コンセプションてなんの意味ですか」と尋ねた。エストラードはこの質問を聞いて、彼女は決して嘘をいっている者でないことを確めたといっている。

1858年4月7日 推定900人~
医師ドズー博士によるベルナデッタの脱魂状態についての証言。
「(ベルナデッタは)左手にロザリオ、右手に四十センチもある長いローソクを持って、まるで天使かと思われるような崇高な姿のうちに、ロザリオの祈を誦えはじめた。やがて彼女は、跪いたまま、いつもの場所から洞窟の方に進み、突然途中で止った。その時、無意識に、両手を胸のまえに持って行ったので、ローソクの火は左手の指のあいだをくぐって、風とともに燃え上ったが、彼女は平然として、少しも熱さを感じないようであった。私はこれを見て驚いた。そして、時計を出して時間を計ったら、十五分余り火が燃えていた。それから、彼女は洞窟のまえに登って、はじめて両手を元通り離した。こうして彼女は祈をおえ、平常の状態にもどったので、私は、彼女の左手を厳密に調べたが、僅かの火傷さえ認められなかった。そこで、あらためてローソクに火を点し、彼女の左手に当てようとすると、彼女は『あ、熱い!』とあわてて手を引いて『あなたは他人の手を焼こうとするんですか?』と叫んだ。私は、この不思議な現象を十分注意して見たが、見た者は私ばかりでなく、側の者がほとんど全部見たのだから、私の迷いではない」。
こんな現象は少くとも二回あった。エストラード嬢は、この日よりまえに、同じことを一度見たと証言している。すなわち、ベルナデッタが点っているローソクに手をさしつけているのを見て「あ! ベルナデッタの手が焼ける。誰か早くローソクの火を消してちょうだい!」と思わず叫んだことがある。しかし、見物人は気がつかないと見えて、誰も応じる者がなかった。エストラード嬢は、驚いて、あとからベルナデッタの手を調べて見たが、火傷のあとがないばかりか、ローソクの油煙のあとさえなかったという。

1858年7月16日 ルシル叔母、二人の聖母会員ほか、町の人々
官憲の弾圧により洞窟は立ち入り禁止(同年6月~10月。群集の増加が政府に脅威を与え、また洞窟の泉を鉱泉とみなして無断で汲み出すのを禁じたため)になっていたので、ガーヴ川を挟んで向こう岸から洞窟を遠望する位置。ベルナデッタはやはり脱魂状態になる。
(編者:当時の地図を調べると、洞窟のすぐそばに細い流れがあり、さらに離れてガーヴ川が流れていた。最初に出現のあった場所は、ちょうど中洲の端のような位置だった。従って、この日、洞窟に出現された聖母と、別れを惜しむベルナデッタとのあいだには、流れが二つはさまっていたことになる)。

この後、現代まで続く病気の奇跡的な治癒の報告については、多くの人の知るところです。本稿では締めくくりとして、ノーベル医学・生理学賞受賞者であり、紛れもなく20世紀の生んだ最高の知性の一人であったアレクシー・カレルの、奇跡的治癒に関する衝撃的な描写をあげておきたいと思います。(ちなみにカレル博士がルルドへ旅したのは1902年です)。


アレクシー・カレル「ルルドへの旅(遺稿)」より(主人公レラックは、カレルの逆綴り)。

 看護人や担架係が大勢押し合っていた。
 それから車椅子が一台また一台とやってきた。口からよだれをたらした知恵遅れの女性、ゼラチン質の甲状腺腫のできたクレチン病患者の女性がマリー・フェラン(編者:結核性腹膜炎の末期症状の女性で、J医師は霊水場へ運ぶ前に「臨終ですね」と言った。抜粋文の描写は、さすがに水につけるのを拒否され、腹部に水をふりかけただけで出てきて洞窟前の広場へ運ばれたときの状況。レラックの付き添っていた巡礼団の患者)の横に並べられた。徽章や教皇勲章の下の胸をふくらませ、手足をあわただしく動かして、S・Mが突入してきた。
 レラックの目は、マリー・フェランの上に落ちた。彼女の顔が変ったように見えた。蒼白い色が消えて、唇は前より青くないように見えた。
「幻覚だ」と彼は思った。「これは面白い心理現象だ。おそらく記録する必要があるだろう。」
 彼は万年筆を出し、正確な観察時刻をカフスに記録した。二時四十分だった。
「しかし今日まで幻覚を持ったことは全然なかったのだが」と彼は思い、Mのほうを向いて、
「ねえ、この病人を見てごらんなさい。様子がよくなったと思いませんか。」
「回復があったとしても、全然目にははっきりしませんね。」とMは答えた。「私にわかるのは、容態が悪化はしていないということだけです。」
 レラックは近づいて、脈と呼吸を数えた。そして少しすると、「呼吸は遅くなりましたよ。」とMに言った。
「それじゃあ、おそらく今度こそ死に向っているんだと思いますね。」とMは言った。Mは信仰を持っていないので、そこに尋常でない事実や奇跡を認めることはできなかった。
 レラックは答えなかった。眼下に彼は、全身の状態の、明白で迅速な回復を認めていた。何かが起ろうとしていた。軽い感動が起り、それに対して彼は身を固くした。手摺によりかかった彼は、注意力をすべてマリー・フェランに集中し、もはや彼女だけしか見ていなかった。巡礼と病人の群衆を前に、今度は一人の司祭が説教をしていた。続いて聖歌と祈願が響きわたった。マリー・フェランの顔はずっと変化し続けていた。目は輝き、恍惚として洞窟のほうに向けられていた。重大な回復が起っていた。ド・O嬢がマリー・フェランのほうに身をかがめて、その身体を支えた。
 突然、レラックは自分が青ざめるのを感じた。彼は、彼女の腹部にあたる、ベルトの周辺の毛布が少しずつ引っ込むのを見たのである。唖然とした彼は、Mの注意を促した。
「たしかに」とMは言った。「引っ込んだように見えますが、おそらく毛布のせいでしょう。」
 大寺院で、三時が鳴った。数分もたつうちに、腫脹は完全に消えたように見えた。
「本当に気が狂いそうだ。」とレラックは思った。
 そして彼はマリー・フェランに近づき、呼吸を診て脈をとった。心臓は非常に速くはあるが、規則的にうっていた。
 確実に何かが起っていた。
「具合はどうですか」と、彼は、彼女に聞いた。
「とてもよいです。力はあんまりありませんけれど、治った感じがします。」と非常に小さな声でマリー・フェランが答えた。
 もう迷う余地はなかった。マリー・フェランの病状は回復しつつあった。彼女はすでに、同じ人間とは思えない様子をしていた。
 深い動揺のために、ものを考えることもできない状態で、レラックはその場にじっとしたまま、Mとド・O嬢に起った事の次第を知らせた。
 ド・O嬢はこの驚くべき事柄を、まるで骨折の治癒に居合せた医者くらいに、ほとんど驚いていない様子で見ていた。彼女はこういうことに慣れていたのである。
 レラックはもはや話しもしなければ、考えてもいなかった。それほどに、この予期せぬ出来事は彼が想いめぐらしたどんな予測にも反していたのである。
 ド・O嬢はカップ一杯の牛乳をマリー・フェランに出すと、彼女はそれを全部飲んだ。それから少しすると、彼女は頭をもち上げて自分の周りを見て、少し身体を動かして脇を下にしたが、少しも苦しい様子は見せなかった。
 レラックは立ち上がり、巡礼たちの列がつまっている間を通っていった。巡礼たちは祈願の声を上げていたが、彼はほとんどそれを聞くこともなく出て行った。四時頃だった。
 不可能な事だった。予期もしない事だった。奇跡が今起ったのだ!
 死にそうだった娘がほとんど治ってしまっている。
 彼は疾患の実際の状態はまだ見てはいない。しかし、今すぐにも「奇跡」とされるであろう機能的回復が、彼の眼下で実際に起ったのだ。
 それもなんと簡単に! ド・O嬢と彼だけがこの素晴しい出来事を知っていた。
(3ページほど略。レラックことカレル博士は、このあと医学証明事務所へ行き、所長のボワサリー医師と語り合う。7時半頃、マリー・フェランを診るため病院に戻ってくる)。
 レラックは考えていた。「ありえない仮定が現実になったのだろうか。」《無原罪の御宿り》の病室の入口のドアを開けると、彼は、マリー・フェランのベッドに急いで行き、口もきかなかった。変化は驚くべきものだった。(略。マリー・フェランの喜びの表情の描写)。
「先生、私は完全に治りました。」と、彼女は近寄ったレラックに言った。「とても弱ってはいますが、やろうとすれば歩くこともできそうです。」
(略。カレル博士は脈と呼吸をはかり、毛布を除いてマリー・フェランの腹部を触診する。見事に回復している状況の丁寧な描写)。
 治癒は完璧だった。すでに顔はチアノーゼ状態になり、腹部は固くなり、心臓は支離滅裂の状態にあった瀕死の人間が、数時間のうちに、痩せて弱ってはいるが、ほとんど正常な娘に変身してしまったのだ。(略)
「完全に治ったようです。」と彼は、知らないうちに入ってきて正面にいたMに向って言った。「診てごらんなさい。私にはもう何も見つかりませんが。」
 J医師とMは、腹部の触診をしてみた。レラックは、ひき退り、同僚のやることをすべて、目を光らせて追った。
「この娘は完全に治った。」とレラックは考えていた。「そのことに異論の余地はない。こんな興味深いことは今までに見たことがない。長年の病気でほとんど破壊された身体に急に生命が戻ってくるという、この特別な光景の印象は、なんと恐ろしく、なんと素晴しいものだろう! (略)」。

(編者:このブログは営利目的ではありません。主と聖母への奉仕活動です。どなたか英語に訳して広めていただければ幸いです。もちろん著作権は放棄しております)。  

Posted by tayori at 07:39旅行資料